自宅ら散歩に行ける距離に。


徒歩で片道30分くらいにある井戸を観光しに行きました。その井戸は、歴史に登場する在原行平と関わりが深い鏡の井と呼ばれる所です。何故?そこに出掛けたかと申しますと、近くには伝説の義経腰掛けの松がありす。それを撮影に行くことが第一の目的でした。
019d8b9e46516323ec98f2d816cd5eb51af0371708


青葉の笛の動画、その続編に、神戸に残る平家の足跡。神戸は平家、平清盛書が神戸発展の基礎を作りました。源平合戦 一の谷の戦い場所の探り巡り動画を作ろうと思い立ったからです。
              
さて、この井戸は住宅街に囲まれた処に、綺麗に整備されていました。神戸市の観光案内パンプレットにも記載はされていますが、興味をもつ人が少ないのか?頻繁に人は着て居ないようです。
            IMG_9112
だけどもこの近く、多井畑神社は厄除けの神として多くの人が訪れています。この神社の歴史は古く応神天皇の命令で全国10カ所に作られた一つの神社{安元時代1175〜1177} 義経も此所に参拝後、一の谷の戦いに向かったとの伝承があります。下記はその義経の腰掛けの松
012c3b49ad24fcaab88b44668bb71161a0b8182163

さて、鏡の井戸と言う名前に反して、井戸は枯れては居ませんが、水藻が生えて飲めそうな水ではありませんでした。歴史はあっても、飲めなければ水、井戸としての価値がありません。
しかし、幸いなること 私達の神、キリストから湧き出る命の水は永遠に枯れること無く、望む人は自由に飽きるほど飲めるのです。
ヨハネ4:13〜14 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

井戸の水には所有者がいますから、イエス様もサマリアの女性に許可も申し出しました。
井戸の水は、自ら汲み上げなくてはなりません!

霊的な思想から考えてみました。
井戸の所有者は聖霊です。聖霊の助けを借りなくては、本当に生けるはくみ上げられないのでは無いか?普段からサマリアの人々(女性)付き合うことが無くても、そこから新しい祈り 会話 伝道が始まります。イエス様がそうなさいました。

ヤコブの井戸の伝統を覆したイエス様?
歴史や伝統のある井戸、先の鏡の井戸ですが、生ける水 飲める水が湧き出ないならは意味がありません。同様に、私達の信仰を手入れをしなくてはなりません。新しい水を、私達が常に欲して求める器でありたいです。教会在籍歴、信仰歴に拘りすぎて、この教会はこのようであるべきを・・その様な壁を作らないことが、新しい水を手にする、飲めつような状態になりやすく身を置きたいのです。
聖霊が突然、訪れたとしても対応が出来ます。サマリアの女性は、イエス様の対応に対して従順でした。サマリアに福音が伝わりました。

現代のクリスチャンは、認可された井戸、聖書があります。
その井戸は、自分から汲み上げなくてはなりませんが、 汲み上げる前に、聖霊の助けを求めてみません? 慣例 伝統的に読むのでは無く 日々。新しい水を汲み上げませんか?

一言、祈る事によって毎日 聖書の水は違う味わいがあるのです。
一度味わった聖書の水を あなたが覚悟して自らの心に刻む必要があります。
そうすれば永遠に乾かない!水になります。キリスト救われた日の記憶、聖書の言葉に涙した日を刻みましょう。イエス様との出会った日、私達に訪れて下さるイエス様に期待しましょう。
そうすれば、先の多井畑神社とは違って、足蹴に通わずとも良いのです!永遠に乾かない水と希望を、祈りを持ちながらイエス様にある永遠の命を授かった喜びの日々を送る事が出来ます。
あなたの祝福を祈ります。

*いつも心の風景から、聖書の愛と福音からの癒やしの記事をご覧下さり有難うごさいます。読まれた後。もし宜しければ、下記の投票のボタン 各項目バナーを押して下さいませんか? 未だキリストを知らない人々にも 目が止まりやすくなる為です。感謝申しあげます。
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村 にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村 にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教 福音派へ
にほんブログ村 にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村 にほんブログ村 ライフスタイルブログ こころの風景へ
にほんブログ村