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心の風景、愛の聖書、福音と癒やしと日常から。ミカエル小栗

ミカエル小栗がつづる心の風景。聖書の福音は愛と救いと癒やし。日常の出来事の心の雑記帳風景ブログです。聖書に基づくカウセリング、祝福と救いと心の癒やしを祈ります。あなたの教会のメッセージ奉仕もします。ご依頼はメールにて!

タグ:#三位一体

聖書の中には

直接、三位一体という言葉は書いて有りませんが、聖書の中には、父なる神、御子キリスト 聖霊の人格と働きが書かれています。

いつ頃、この三位一体が、私たちクリスチャンの間に認識され、キリスト教の公的な神概念として確定されたのでしょうか?

三位一体と言う言葉はギリシャ語からの由来です。当時の教父 心学者によって
ニケア会議 AD325年において公認 議論されてきました。

コンスタンティノポリス会議 AD381年で アタナシス信条として採択されました。
その後のカルケドン会議 AD451年 承認されました。「
ニケア・コンスタンティノポリス信条」として称されるようになりました。
「根、木、果実。海、陸、空の関係。」の関連性から三位一体論の確立に 次の人物が深く関わっています。テルトリアヌスから、アナンシウスへ。そしてアウグヌスティヌスの三位一体論 AD421年に完成しました。

アウグヌスティヌスの三位一体論の中には、「聖書によって、父と御子と聖霊は一つの同じ実体の不可分離的に等しくあって神としての統一性を示している。したがって3つの神では無く、一つの神であり、父なる神は、御子を生み出し、御子は父なる神とは別の人格の神である。聖霊は御子でも無く 父なる神でも無い別の人格の神である。そして聖霊も 御子も等しく父なる神と三位一体の統一性を保っている」と要約しています。
20160718003923

第1ニカイア公会議(325年) 第2ニカイア公会議(787年)
信条として決まった事は下記に。 

わたしは信じます。唯一の神、 カトリック教会で使用
全能の父、
天と地、
見えるもの、見えないもの、すべてのものの造り主を。
わたしは信じます。唯一の主イエス・キリストを。
主は神のひとり子、
すべてに先立って父より生まれ、
神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、
造られることなく生まれ、父と一体。
すべては主によって造られました。
主は、わたしたち人類のため、
わたしたちの救いのために天からくだり、
聖霊によって、おとめマリアよりからだを受け、
人となられました。
ポンティオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられ、
苦しみを受け、葬られ、
聖書にあるとおり三日目に復活し、
天に昇り、父の右の座に着いておられます。
主は、生者(せいしゃ)と死者を裁くために栄光のうちに再び来られます。
その国は終わることがありません。
わたしは信じます。主であり、いのちの与え主である聖霊を。
聖霊は、父と子から出て、
父と子とともに礼拝され、栄光を受け、
また預言者をとおして語られました。
わたしは、聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会を信じます。
罪のゆるしをもたらす唯一の洗礼を認め、
死者の復活
来世のいのちを待ち望みます。
アーメン。


プロテスタント 使徒信条

我は天地の造り主(つくりぬし)、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子(ひとりご)、我らの主(しゅ)、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生(うま)れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架(じゅうじか)につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを審(さば)きたまわん。
我は聖霊を信ず。
聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。
アーメン

ウェストミンスター信仰告白も上記に準じています。


続く!


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私たちクリスチャンは

父なる神 御子キリスト そして聖霊の神を三位一体と信じています。
前記にはその基本的な考え方とイメージして解説 3つの人格の相互関係を説明しました。

さて、この考え方はいつ頃から定まり、神学の基本となったのでしょうか?
聖書の中には直接、三位一体とした言葉は使用されてはいませんが、しかし聖書を注意していれば・・
創 1:26 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は{われわれのかたちとして}と複数形表記。
               Angelsatmamre-trinity-rublev-1410

また。
イザヤ 6:8 私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」
複数形を使用されています。しかし、旧約聖書では神の名前、神がご自身で、ご自分を示す名前 言葉としては神の単一性がはっきりと啓示されています。

例えば、アブラハムに現れて 全能の神 エル・シャダイと名乗られました。モーゼには{ご自身を在って在る者}エホバ [ヤハウェ]と単一性的な複数形で名乗られました。
発音的 翻訳的問題から現代の日本語聖書ではエホバ{複数形の固有名詞や代名詞、単一性的な複数形}は 主 という言葉が 神を表す言葉と使用されています。アブラハムは主と呼びかけて 複数形の固有名詞や代名詞で 神を呼んでいます。

神がアブラハムを訪ねます。その時には、神は3人のように描かれました。
創世記 18:2 彼が目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼は、見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をした。
 18:3 そして言った。「ご主人。お気に召すなら、どうか、あなたのしもべのところを素通りなさらないでください。

アブラハムは
三人の人に対してと単数形で呼びかけています。
しかし、この箇所の主は
複数形の固有名詞、あるいは代名詞、単一性的な複数形なのです。{古代ユダヤ語から現代語 日本語表記になるための苦心もあります。}

アブラハムに訪れた神は、ソドムに居たロトを訪ねています。
創世記19:1 そのふたりの御使いは夕暮れにソドムに着いた。ロトはソドムの門のところにすわっていた。ロトは彼らを見るなり、立ち上がって彼らを迎え、顔を地につけて伏し拝んだ。ロトはご主人 と(エホバ複数形)で呼びかけています。

神はイサクの犠牲を止めさせたアブラハムに対して ご自身のことを主(翻訳上) エホバ【YHWH】と言われた、言わせた!=
主の御告げ
創 22:16 仰せられた。「これは【主】の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、」
わたしは自分=複数形の固有名詞

その後 アブラハムは アドナイ イルエと言いました。 
このアドナイ 神の名前 名は複数形 
エロヒムは真の神として使用されるばあいの動詞は単数形です。


根本的には 神の名前を直接、語る 伝えることはお恐れ多いと考えたユダヤ人 ユダヤ語は荘厳さをしめす言葉を選んで 直接神の名前を口にすることを避けたのです。
神の名前を単数形、複数形の固有名詞と代名詞で表現してきました。
使い分けとしては 名前は単数形、存在は複数形の固有名詞を使いました。

創世記 18:2 に有るように 3人の人は ユダヤ語 旧約聖書では暗黙的に 
父 御子 聖霊を指して一つの神である いるのです。

 続く
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