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心の風景、愛の聖書、福音と癒やしと日常から。ミカエル小栗

ミカエル小栗がつづる心の風景。聖書の福音は愛と救いと癒やし。日常の出来事の心の雑記帳風景ブログです。聖書に基づくカウセリング、祝福と救いと心の癒やしを祈ります。あなたの教会のメッセージ奉仕もします。ご依頼はメールにて!

タグ:重荷

人はあらゆる環境の中で生きています。

しかし、その環境になじめない、ついて行けない人も必ずいます。
責任感が強くて、その場から離れられない人は、その環境になじめない拒否反応と、己の責任感の強さから来る、そのギャップに悩みます。
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 色々のケースがあります。
そのケースに対応したり、切り抜けたり、はたまた、新しい環境に変わるとかの手立てもあります。責任感の強い方は辞めることをしません。また、親から言われ絶対に従わないといけないとか。また職場の上司から言われたこなさなくてはいけない命令。それで、もうまく出来ないときにも 適応障害が生まれてきます。

ストレスがたまりすぎて爆発する。暴力的な行動。暴言を吐いたりの行動をとってしまう場合もあります。失意から自殺願望さえ生じてしまう方もいます。生きていても勝が無いと諦めてしまうからです。

ストレスがたまりすぎないように、自分自身をコントロールし、息抜きを知れば解消もされます。
しばらくの休職。また退職と転職で環境を変えることも出来ます。

また自らが場環境がたとえ困難であっても、やり遂げる使命感、喜びを感じる方、目的がある方は努力してその環境に慣れていきます。人の心は繊細で複雑ですから、各自に合う方法を選択しなくてはいけません。

私は 若い頃に学校を卒業して調理師をして働きたいと思いました。プロの職場は厳しくて、また次々来る注文に追われますね。必然と動作の機敏さを要求されます。のんびり屋さんで育ちましたから、動作が機敏=素早く反応できませんでした。 これも適応障害でしたね。 先輩方怒鳴られついて行くのが一杯 一杯でした。

将来の目的、店を持ちたい願いが強かったのです。その気持ちは 先輩たちに怒鳴られても めげませんでしたので、次第に環境に、ゆっくりでしたが、なじみ始めました。のんびり屋さんの性格は中々 変えられませんが、動作が速くなるように段取りを工夫することを覚えました。 忙しく次々と注文が来ても オロオロしないで冷静に判断して身体が次第に動き始めました。それで調理師を止めずに済みまして長きにわたって、この調理の仕事をしてきました。 背後には、私の信じるキリストの助けがありました。

さて、いまから45年前。親からの責任有る仕事を命令されて、うまくいかずに、暴力的 暴れた時に、精神科に入れられた人がいます。
当時は適応障害と言う病名も無かった頃だと思われます。 親の不理解 分からない状態でした。

それ以来、いくつかの病院を変わりましたが、病院に隔離されたままの方がいます。
今も、安定剤を飲まされている状態ですが、入院していない人に比べては、服用している安定剤は少ないと思いました。

6年前に、私の記事が100万人の福音というキリスト教雑誌に掲載されました。
偶然にその雑誌を見てた、その方が私に連絡をしてきました。それから月に一度。または2ヶ月に一度の割合で訪問して聖書の話と祈りをしています。

随分前に関係があった教会からは、現在。訪問が途絶えているようです。
けれど 「私の心にはキリストが住んでいる。」と言って、クリスチャンなれたことを本当に喜んでいます。
霊的には救われていますね。 一般社会にて生活するには如何なものかと考えてしまいます。
45年の病院暮らし、60歳を超えています。当初は正直に癒やしを祈ることに躊躇しました。
45年間の病院暮らしから一般社会に出ても、55歳では仕事すること 就職して自活がとても困難に思えることが想像でしたからです。

それでも一般社会にて暮らしたいと、最近は願いを持ち始めています。精神的に完治 癒やされても、その方の年齢から鑑みると現状では難しい点が多いです。 しかし・・・。

難しいからと言って避けてもいけないと、最近は特に思い始めています。

先のブログの青年の例が有るからです。神には不可能はないと再確認しています。
明確な意思 希望があれば乗り切れますし、キリストの言葉もその事を指していると思います。

最近。精神的な病の方のために祈っていると下記の言葉が心に残ります。
この言葉は一般的に知れ渡っている言葉ですが、 如何に各自に適応 応用するかにその意識と意味が違って来る気がします。

マタイ6:34 「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」

色々心配や病むことがありますが、あすに持ち越さないように、心を切り替えてストレスを貯め込まないようにしています。 

マタイ16:24 {それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。}}

一旦。自我 自分の思いを捨てること。 =心の重荷を取ってしまうこと。あれこれの悩みを捨てること。それからキリストの十字架を背負うことをにも応用。適応できます。
 
この箇所 本来の意味は、16:24 の言葉の前には、ペテロは自分の思いを優先、しかしキリストは戒めました。神の御心に叶うように、自分を変えることから、あらしい十字架を背負うことを指しています。

精神的な問題、鬱の原因。生活から来る各種の問題を、キリストに下駄を預けると、キリストが背負ってくださいます。あなたらしく背負う十字架は、キリストの生き方を背負って生きる事にも通じませんか?

私たちはキリストに在って、新しく生きていますから、神の助けは絶対にあるのです。
勝利の道を歩めます。

第二 コリント 2:14  「しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。」

現在 精神的に問題を抱えて、またウツにもなっている方々。今が健康だが、紙一重で思い煩うとウツになり、心病む事が多い私たちですが、キリストに希望を見いだして、自分の問題をキリストに委ねるときに、キリストはあなたを背負い、一緒に歩いて問題を解決する力を与えてくださいます。

私はキリストの言葉により、カウンセリングをしています。教会で傷ついた人からも相談があります。 カウセリングをしながら 一番癒やされたのは 私かもしれないです。 色々 霊的なご相談をさせて頂いています、無僕の教会、特別な伝道集会 癒やしの祈りに ご一報下さい。

                





 
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私達には重荷、タラントが与えられています。

つまり、この事で神様に栄光を帰したいとか、また神さまから受けた恵みと同じ物を隣人と分かち合いたいと感じたことが出発点だと思います。

私自身も、最初はとても不慣れで、福音、十字架の救いの証しもぶきっちょで満足に出来ませんでした。恥ずかしかった。
でもそれ以上に、救いが嬉しかったですので、ポツリ、ぽつりと話し始めました。

その決意をすると、神さまが用い始めました。初めはとても小さな始まりでした。

また有る時には、母がアルツハイマー病の記憶喪失から回復、神さまの業ですね。
また私が癌になって、大奥の人に祈られて回復しました。
それから、神さまの癒やしについて考え祈り始めると、隣人たちが癒やされました。 

                     

最初は祈っても「治るの?不安との戦い。」その不安と闘って振り切って祈って、自分自身がビックリでした。
どんなことでも、神への愛、隣人への愛に神さまが報いて下さいます。愛がないのなら虚しいですね。  

 私は海外生活中のお金 小銭を未だに持っています。日本にいては全く使えません。
 その国に行くと十分使える小銭です。 私たちが与えられている、神の国のタラントは生かしてこそ価値があり祝されます。使う動機は神の愛の感謝と、隣人にその神さまの愛を伝えるためです。
                     
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他人様から「あなたは何をしているの?駄目な人、祈っても無駄!」と思われ、言われてもても、神さまが私たちを愛して押し出されたことをコツコツなさると祝されます。

祝福の祈り・・有る時に、初めて出会ったヘンリーグリーパー師からの将来の予言的な祝福の祈りを受けました。嬉しくて涙が溢れ感動しました。神さまが私を忘れていないと告げられました。
その感動。ヘンリー先生がおこなっていたような感動ミニストリーを、また分かち合いと祈り始めて、断食もしました。
預言的な祝福の祈りも、『神さまこの方をどの様に祝福されたいのですか?どの様に癒やされたいのですか?』と祈り始めると確信が持ってて、告げた通りになるようになっていました。
時々ですが、とりなして祈っている方の病気の状態も、離れていても解るときがあります。 
これも最初は、不安との戦い、告げて見てビックリでした。祝福の言葉通りに、心と身体が癒やされ始めました。私が重視していることがあります。それは身体の癒やしの前に、救われる事、心の癒やしです。 そのためにも、身体の癒やしの前には、霊的なカウセリングー心の癒やしを執り行うようにしています。これも最初から出来たわけではありません。少しずつ訓練もされました。
神さま・・と祈りました。「ヘンリー先生から受けた恵みを分かち合えあるようにして下さい。」との小さな願いが動機でした。

                       

重荷・・「この事に関して、神さまのために何かをしたい。またこのために隣人の為に尽くしたい。」が重荷かなと思います。
タラント・・「この事に関心 興味がある。この事が上手くなって見たい。人を喜ばせて、神さまに、その人を振り向かせ関心を持って貰いたい。」・・タラントでは無いでしょうか?

いずれにしても、祈りながら前に出ると。振り返ると大きな恵みの河になっています。

大切だと思う事は、神のために自分の思いを献げることから、行動も祝されるようになっていたのです。
あなたから流れる恵みの水、タラントの水は最初は少ないかも知れませんが、振り返ると多くの人の渇きを満たします。
エゼキエル
47:1「彼は私を神殿の入口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、宮の右側の下から流れていた。」

上記の聖書の言葉通りに始まりは小さくても、徐々に水が増えたように、私たちのタラントも、神さまの愛と力で増やされます。

ご覧になって下さった方々への祝福を祈ります。



            
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