神の愛には,より好みがあるのかな?パート2

神様の愛は、全て信じる人に は等しい愛なのでしょうか?
前記では,アブラハムは「神の友」と呼ばれましたが、モーゼには「神の友」とは呼ばれませんでした。 
この違いは何でしょう?カインとアベル!同じ捧げ物であるのに、カインの捧げ物を拒否なさいました。

初めてこの聖書箇所を読んだ時に何故と?と思いませんでしたか? 色々。神学的な裏付けもされてはいます。しかし・・。アベルは、動物の血。命を捧げています。 また献げたときの態度。アベルとアベルとの違いも在ります。
アダム達がエデンを追放される時に、一匹の獣の血が流されています。救いと犠牲の原形とも言えます。

創 3:21 神である神は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。

アベルは、両親からこの話を伝え聞いていたのでしょうね。初物の捧げ物に,同等の捧げ物を選んだ,彼の心を受け入れたと思う神様です。 詳細な神様の気持ちは,聖書には書かれていませんけれど・・血の代価には、血で
返したアベルの心を愛されたのでしょうね。

 逆に,カインの態度、心はふてくされていませんか? 
私たちが,神に捧げもの、私利私欲が含まれていないだろうか? 

神から受けた恵みを血の代価で払う.これ程 尊いことは無いですね。 

アブラハムは人生の中で、神のテストからは失敗を繰り返していましたが、最後には神の命令に忠実でした。 イサクを献げる決心をしました。血の捧げ物は,アベルと同じです。 またエデンで神がアダムに与えた獣の血の代価です。 のちに,キリストの血の購いの原形となりました。


モーゼは・・? 神様の命令に忠実でしたことを,私たちは知っています。
ただ一点。神が言われていた通りに,彼の杖を使いませんでした。
砂漠の中で、水が無いとイスラエルの人たちから,散々文句を言われ,イラ立っていました。
神は、「杖を岩に向かって,差し出すように」と語りましたが,モーゼはイラだって その岩を叩いてしまいました。
                       
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民 20:8 「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ。」
 20:9 そこでモーセは、主が彼に命じられたとおりに、主の前から杖を取った。
 20:10 そしてモーセとアロンは岩の前に集会を召集して、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」
 20:11 モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、たくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲んだ。
 20:12 しかし、主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」

モーゼは神に従いましたが、この一点で神を聖なる方としませんでした。絶対者の神に 少しでも忠実になることを,私たちに対して示唆しています。モーゼは約束の地、カナンの地には入ることを赦されませんでした。私たちが知りえる神のお気持ち 愛は一部でしか無いですが、キーワードの一つとして忠実がある気がします。 イスラエルの民の導き手としてモーゼはとても優れて人でした。
十字架にかかる計画をイエス様に告げたエリヤと共に一人では無いでしょうか?キリストの姿が弟子達の目の前で変貌したときのことです。 この時、エリヤとアブラハムでは成った人選は.神だけが知っています。

さて・・神の御心を思っての捧げ物、祈り 献金が無いだろうか?また、独りよがりだったり、
手前味噌の献身 献金 献品が無いだろうかといつも吟味しています。 神に誠意を尽くしきる人を神は愛されるのでは無いだろうか?

私たちが神に向かうとき,その誠意 心を神様ご自身が吟味なさいますね。神の吟味に合格した者には格別な恵み 祝福が伴うと信じます。

エホバ エルシャダイ等と 多くの神聖な お名前で例えられている,私たちの父なる神を絶えず 聖なる 聖なる絶対者 雄一の神として崇める者だけに 格別な恵みが伴うと信じます。


教会に出席して、クリスチャン同士に 傷付けられてとしても,いつも神に目を留めていれば 神は守られます。
 その鍵は赦しであることは、変わらないと思います。