私たちが祈っても答えが見つからないと

不安になってしまいます。 どうしたら確信を持って祈る事が出来るのでしょうか?
ある意味では、クリスチャンの永遠のテーマかもしれません。

神に対して、私たちが語りかける出来るのは、本来。御心でした。そのように計画されてアダムとエバを創造されましたが、罪がもたらされたときに、神と交わり語るために必要だった清さが奪われました。エデンの園を歩いてこられた神様にアダムは恐れ隠れる存在となりはてました。

創世記3:9 神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」
 3:10 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」

清くない、罪があると、神の前には出られ無くなります。 私たちの清さを取り戻すために、キリストが最後の大祭司となってその血を十字架で流されました。最初に、神様が人を創り計画なさったように、神と交わる事が出来る私たちに存在に返ることです。ここに神の深く寛大な愛があるのです。

私たちが怠慢であっても、神に逆らっていても、どのようなことをしても、考えたとしても、神はチョッとやソッとでは動じない方です。 キリストの十字架を見上げるときに、神の計画しておられた、神ご自身との交わる場所に戻れ、会話する場にとどまることが出来るのです。 キリスト、神の子の貴い犠牲の上に成立、成就しています。
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この原点の再認識をしませんか?
神の臨在を求めて下さい。 その臨在の中にいるならば、聖なる清さ  静寂の中 暖かいもののを感じたり  背筋がピーとする聖なる恐れそのほか言葉にならないです。多くの場合。強い臨在の中では人は倒れます。気を失いないます。

 濃厚な臨在の中では、私たちの色々の願いごとは、どこかに吹く飛んでしまいます。
その濃厚な臨在の中から、後に残る神に愛されている確信が重要なのです。 

神の霊は極端に強く下りたら 人は倒れる事が多いです
第一サム 19:24 彼もまた着物を脱いで、サムエルの前で預言し、一昼夜の間、裸のまま倒れていた。このために、「サウルもまた、預言者のひとりなのか」と言われるようになった。

倒れる事が重要ではなく、その力の源である神を知らなくてはなりません。臨在を求めなくてはなりません。
神が私たちを深く愛している存在であること確認、 確信しなくてはなりません。

その確信。 こそは祈りの原点なのです。
ただあまりにも強い臨在の中にいる。留まっているならば、神に何かを願う、要求することは忘れてしまいます。

神と自由に合えるほどよい距離、けれどサタンは妨害して雑念を運んでくることも多くなります。
それでも神に向き合うことが重要です。神は私たちの弱さ、雑念を飛び越えて耳を傾けて下さいます。
明石海峡大橋ライトアップ


詩 22:24 まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。
 
詩27:7 聞いてください。主よ。私の呼ぶこの声を。私をあわれみ、私に答えてください。
 27:8 あなたに代わって、私の心は申します。「わたしの顔を、慕い求めよ」と。主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。
 27:9 どうか、御顔を私に隠さないでください。あなたのしもべを、怒って、押しのけないでください。あなたは私の助けです。私を見放さないでください。見捨てないでください。私の救いの神。

 神の臨在と愛の確信を持つならば、神の前に出てj正直に、語り合えることが出来ます。

神と語り合うこと無しに 、祈りの答えも癒やしも無いのです。
キリストの愛と犠牲 十字架が 聖霊が 私たちの助けとなって 父なる神に 私たちの祈りを橋渡しをして下さるのです。