色々の人生経験を体験した人々や

職業、考え方の違う人々が一堂に会して,神、キリストに讃美と祈りを献げて、
それぞれの教会の長老 牧師 司祭 神父と言う立場の方々から、聖書からの教えを受けて、神の気持ちを知り,更に神に近づく所です。

教会の長い歴史の中で悲しい結果を生み出し分裂もして争ってきました。
私自身も同じ経験をしました。 神に求めた事(癒やしが有る無い)が違うことで,悲しい思いで,その教会を静かに身をひきました。


仕事で,30〜40歳代にかけてイラクやアルジェリアのプラント工事に参加して,教会がないところでの生活も長かったです。

その時は、一人で礼拝して,聖書を調べていました。日本から、これは良いな〜と思う神学書も買って持って行っていました。結果。それらの神学書、信仰書を買うときには色々の教派の先生方の書いた書物なってしまいました。

帰国後に、母の癒やしから違いを感じたことも事実です。保守的なバブテストの教えを土台に、聖霊はと言うペンテコステ カリスマの集会にも導かれました。

1960年代、中学生の頃。調理師になること目指したので、高校には行きませんでした。 昔の言葉ですが,当時の中学卒業生の就職は金の卵と言われてもてはやされていた時代です。 高度成長期に入りたての頃です。

 若い時に、神学校入学したくても、宣教師から、高校卒業していないから、あなたが神学校には入れません。駄目ですと言われていました。 結局。50歳になって,色々の神学校に学歴の件で問いあわせても,良い返事!!

 私は 色々の集会で,カトリックの神父様にも数名出会い,その教会に出向いて祝福の祈りを受けました。
カトリックとプロテスタント。マリアやパウロ、ペテロの聖人、神格化の違いがありますが・・現在、生きている人にとりなしの祈りを依頼するかしないか・各自の判断と信仰です。争って私たちが結果を出さなくても,神様の判断が最後の時に在りますから・・。

 プロテスタントの中でも、それそれの教派の良さが在ります。お互いの違いを認め合っても,違いを強調して争うことは、神が悲しむと思います。クリスチャン同士が細かいことの違いでもめるのは変だと思っています。神様は悲しむと思います。愛と一致するように心がけています。

 病気の癒やしは絶対にない。それは使途行伝の時代だ! と言っていた牧師の息子が重い心臓病に・・そうなれば。人はやはり自然と神に祈ります。その息子は癒やされました。医療と信仰の力です。大きな、小さな違いは,神は直接。各個人に教えられると思います。その方(牧師)は神の癒やしがあったと方向を変えました。私たちが直接違いを指さすことは無いと思います。

 指さすと言えば・・ インターネット上で。2チャネルなどでは,教会や牧師を、指さして色々書き込むことは悲しいことだと思います。 人の目、額に付いているゴミのことで呟いているのと同じです。
自分自身のゴミ&チリを綺麗にしてからでないと書き込みはいけないのでは?と思います。
インターネット上では未信者さんも観ます、その未信者さんがキリストご自身に結果的に失望したら,書き込みした方々が,神の前では、どの様な責任を果たすのでしょうか?

 聖書に書いてある額面通りを信じています。教理教派の違い。解釈の違いが多生あったとしても、その点を争わすに神様にお任せ、私たちは主キリストに在って一つです。

 ペンテコステ系の牧師さんの悪霊の取り扱いの間違い 行き過ぎから傷付いてしまう方もいます。異言は絶対と言われて傷付く方もいます。神が時を与える。と思います。急ぎすぎた結果をもとめるのは・・? 神が子供を与えると言ったのに、何年かかってアブラハムは子供イサクを得たのでしょうか?

清め派と言われる教会では,清めを強調しすぎて・・傷付いています方もいます。
罪を犯したからと毎日のように罪の赦しを祈る方もいます。ナーマン将軍は,自分の描いた筋書き通りの清めはなかったのです。


人はうっかりとか。意識的にも罪を犯しやすい性質は,死ぬまでは治りませんからね。開き直るのでは無く,悪から遠ざかり,罪を犯さないように,自分を見張る必要は無くなりません。でも、過って犯したならば、素直に神に告白し,神の力、十字架で許されていることを確認して讃美する方が良いです。
 
 安心して十字架の下にある救いの憩いを得てください。繰り返して、『許してください。許してください。』と言う祈る必要は無い。それ以上の神との信頼関係を・・つまり親子の関係の下にある絶対的な信頼を築いてください。

幼子は親に逆らっても,親が自分を赦す事を信じ切って,ケロとしています。それは親子の愛と信頼だと・・神様も同じ、嫌それ以上に 十字架で死の代価を支払い、買い取った親子関係なのですから。許しを毎日請うのでは無く、こんな事(罪)をしてしまったけれど,告白した後、過去現在 未来と許されていることを讃美したいです。

 各自家庭でも,意見の違い考え方が違いますけれど、家族として纏まるときのように,クリスチャン同士も違いより愛し合う。認め合う方が余計に大事だと思います。