神は 私たちをキリストにより、

私たちの存在を否定しません。貴重なものと見なします。この「みなし」とはキリストの十字架によってです。
神に愛され選ばれたことから、 私たち自身も 神様からの視点から 自分たちを見るならば 自己否定は 神の視線では決して有り得ません。
神様の思いに対する的外れ、この的外れを別な意味からは罪に当たる意味を持つ言葉になります。 

キリストの十字架の贖いは完全!一度です。何回も十字架につける 掛かる必要はありません。
なのに 毎日 毎回 許して  許しての祈るのは キリストの十字架の贖いは不完全みたいな気がしませんか?
主の祈りにもあるように、ゆるしてより 悪を遠ざけ 守られること祈ります。誘惑に近づかない 裁かないなどなどがあります。

子どもの頃 悪ガキ 親が嫌がる  してはダメ、、わかっていたけど  ついね やらかす、
怒られ 叩かれ{きつく注意され、}はい おしまい! 親の愛情 神の愛による土台から許されているからね。親の愛情 神様の愛情があるのてす。神は決して見捨てないからね。
神様は愛が深いから 立ち直るよう導きますね、今は完全では無いかもしれないが立ち直り 悪から 罪から離れる方に力を入れて導きます。
犯罪者の親が子どもがどんな事をしたかより 愛していることを伝えるコメントを多く聞いた事があるでしょう。 裁く言葉より立ち直りを期待する気持ちが強いように 私たちの父なる神は それ以上です。

神から叩かれる!? 試練かな? その度に 軌道修正 信仰修正されています。
修正されないのは 見捨てられた孤児だよ。 しかし 神は見捨てない 孤児にはしないと言われたよ。

エレミアは神の言葉を伝えていきました。  社会人としては 無視され  社会的には成功しませんでした。誰も エレミアの言葉に耳を傾けませんでした。 

神は イスラムにバビロンに捕囚に   しかし 一定期間後に  希望を残しました。 エレミアを通して、、 それでも 社会人と エレミアを認めなかった、 ただ神の言葉を忠実に仕える 伝える実行しようとしたのはエレミアだけでした。
現代に生きる私たち、先に救われたのですから、神の言葉を伝えていく使命がありますね。

神の救い。十字架の福音を、復活した出来事を 私たちに適応させて生きたいです。
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神の言葉を語りたい。 大規模な教会成長。それも素晴らしいが、私は 地道にコツコツとを選びました、 しかしながら リバイバルは祈ってます。

私はただで受けた 母の癒し アルツハイマーの記憶喪失からの癒しを、隣人にかたり、また私自身の癌のいやしから、隣人や 私のインターネットを見た方々に癒しや奇跡を見たいと思い祈ってます。歩けなかったひとや目の見えない人は、その人ご自身の信仰により癒されました。私は信仰に励むよう励ましを導くようにしています。
他にも癒しを神からは見せて頂きました。著しい奇跡、死人の蘇りを求めて 見たいと祈っております。

キリストの復活や十字架の救いを伝える方法は様々有ります。各自、それぞれの方法があります。あなた自身の方法を用いてキリストの復活を日本に伝えませんか。