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心の風景、愛の聖書、福音と癒やしと日常から。ミカエル小栗

ミカエル小栗がつづる心の風景。聖書の福音は愛と救いと癒やし。日常の出来事の心の雑記帳風景ブログです。聖書に基づくカウセリング、祝福と救いと心の癒やしを祈ります。あなたの教会のメッセージ奉仕もします。ご依頼はメールにて!

タグ:花嫁

コイノニアΚοινωνίαは

ギリシャでは結婚絆を指すために使用され、それは2人以上の人を一緒に抱くことができる強力な共通の利益を示唆していました。一夫多妻の感覚とその家族の人間関係を示唆する言葉として古代ギリシャでは使われていた経緯があります。


家族、結婚は全ての生命の土台、家庭からコイノニア、つまりすべてが共有された人生を一緒に生きるためには、2人が結婚に入るかもしれません。
 1人の夫に私たちが花嫁と云う例えとなります。それで私たちがキリストの花嫁と云われる由縁です。
 
この言葉は霊的な関係にも関係しています。 

この意味では、神のために他人と一緒に握られて共有され、人間の「神との関係」に話すことを意味します。 Epictetusは「 ゼウスコイノニアを結ぶことを目指す」と宗教を語ります。

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キリスト教初期のコミュニティは、これを聖霊との関係と花嫁として私たちクリスチャンを見ました。この意味で、 コイノニアは、会員全体のより大きな利益に貢献するより高い目的または使命を強調します「熱意」という言葉は、この「コイノニア」の意味と関連しているのは、「私たちの中に神の霊に浸る」ことを意味するからです。

 
コミュニティのアイデアは、目的と利益の「共通の団結」を意味します。

 この統一された関係に従うことによって、新しいレベルの意識と良心が出現し、より高次の思考と行動にグループが拍車をかけ、メンバーに相互利益のある関係が存在するように力を与え、励ます。 このように、コミュニティと家族は、共通の団結を目指すことは、
崩壊、分裂を克服し、最終的に各メンバーと環境と神との全体を得るよう努力するので、密接に絡み合っている。
 教会内の対立、個人的な意見の相違を克服しなくては成らない。
家族であれば意見の違い、ケンカが起きても、家族としての基盤を守るための要は許しです。
相互支援、友情と家族の合併を提供することによって。
 フェローシップとコミュニティーの両方は、内外の団結を意味します。 コミュニティの枠組みのどこにも、命令と統制の階層が暗示されていません。 リーダーシップがある一方で、指導者の仕事はエネルギーを集中させ、利益を守り、コントロールを課すことではありません。


コイノニア
は信頼を築く兄弟の絆を作り、特に知恵、美徳、名誉の価値と組み合わされると、人間の最も深い恐怖と不安のうちの2つ、すなわち裏切られ、卑劣になることを克服する。 教会内で裏切られ、失望した!怒りなどは 聖霊の力を借りて克服し、許しの心が芽生えます。参照ローマ12章
 

コロサイ3:14

ローマ 12:19 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」

総称して、あるいは個別に作業するかどうかに関わらず、古代ギリシャの革新者たちは、地域社会の発展を促進し、他の人々との理解を共有し、すべての船舶が上昇するように働きました。 したがって、より高い目標や夢は、より簡単に心に現れ、現実に達成されます。 チームの目的意識が明らかになりました。

キリストは私たちが住む地域に影響を与えることが出来るように、コイノニアとして成り立つ教会を通じ一般社会に与える影響 オイコス家族形成を望まれました。
続く

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 先月のことですが・・

 白血病の患者さんを見舞い。癒やされた事を、神に感謝しつつ、東京江戸川区西葛西に行きました。ここ西葛西には数度来ました。ネットを通じて知り合い、その方が患っておられる頑固な耳鳴りが癒やされるようにと、数回。祈りに行きました。今回も共に食事をして話し合い祈りました。

難聴の方や耳が聞こえない方も、信仰と祈りで癒やされています。でもこの方は何度か祈ってはいますが癒やされてはいません。 今回は急に休みが取れての上京でした。その方との十分な連絡なして上京をしたのですから会えるかどうかに関しては多少の心配もありました。ひがんばなNO1
前回の時には、その方が取って下さったホテルで時間をかけて祈りました。祈っていると聖霊は安息を与えて下さって、心を穏やかにしてくださいました。目を閉じて祈られていたか彼が沈黙の中で寝息を立てました。私自身も、聖霊がなさることに身を任せて、目覚める時を待つ間に、旅の疲れもあって、今度は私自身も寝てしまいました。

結果。彼が先に気づいたので、彼が失礼な感じを持ったのではと、この点でも心配していました。聖書には聖霊に満たされ安息の中で寝ることの記されています。そのときには彼の耳鳴りは癒やされませんでした。

 何度か・・自宅に帰っても彼を・・(他の人々のために覚えて癒やしや救いを祈っています。)覚えて祈りつつけて、今回会えましたから感謝です。

 私自身が聖霊の力。キリストの癒しを少しでの沢山、見たいと希望しつつ、信じながら願っています。彼の癒やしもそうですが、私は諦めないで祈り続けるようにしています。祈り合う互いの信仰と希望も大切です。神は心併せて一致する祈りに耳を傾けて下さいます。

 病には老化が原因の場合と霊的な精神面が原因の場合があります。
アゲハチョウ1 今回。話し合って分かったことがあります。彼はキリストを信じる前に、禅の教えに影響を受けていました。そのことから感じたあくまでも、私個人的な考えですが、キリストは純粋な純白の花嫁である私たちを望まれています。
神はそのことからすべてを捨てて、混じりけの無い純粋な心を望まれる気がします。キリストを信じてからは禅の教えに耳を傾けないようにしていただきたいですね。 聞く事。聞きにくくする。耳の病気にと繫がっていないだろうか?

 怒ってばかりの人が、胃腸病になりやすい傾向に似ている気がします。 病と霊的な関係は見過ごせないと思います。

 以前。夫婦中が今一良いとは言えない。彼女は夫の話は余り聞きたくないといつも言っていました。あるときから耳が悪くなって聞こえなくなってきました。癒しの祈りを依頼されましたが良くなりませんでした。霊的なカウンセリングをして、夫婦として和を保ち、夫の話にも耳を傾けて聞く耳を持つようにと勧めました。彼女はその後悔い改めました。それから私が祈ると、主イエス・キリストは彼女を顧みてくださり、彼女の耳が聞こえ始めました。その経験もあって、病と霊的な関係も見逃せないです。

神は純粋な心の花嫁としての私たちを迎えるために、様々な救いの道を備えて、訓練、試練、訓戒も与えます。あるときには病になることも黙認なさることもあります。ヨブのように・・けれど必ず癒しを私たちに与えます。それは少しでも純粋な心の花嫁として訓練ー花嫁修業かな?信仰面や霊的な面でも訓練して下さいます。過去のに関わったキリスト以外の教えをキリスト得るために、・・たとえば結婚後に、昔付き合った人の話を持ち出されたとしたら・・けっこしたものは気分を害するのでは無いでしょうか?付き合いは付き合い、でも今はあなただけですという態度や考え信仰を持った方が良いと思います。キリストは私たちの花婿ですから・・。

癒しを受けるためには、諦めない神への信頼と希望と信仰です。

彼岸花
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