発見、織田信長 兵庫城天守台跡、説明会。
神戸兵庫区、中央市場前の建築現場から、織田信長が築城した、兵庫城天守台が発見されました。その説明会のことを、偶然。新聞を見て知りました。
急に興味が湧いてその遺跡の説明会並び撮影に出かけました。
織田信長が、西国を攻め込むための基地としての城でした。安土桃の山城と共通した石組み、また安土城以前の建立も伺わせているとかの説明
石組みにはどこから奪った塚石も組み入れ、未完成な仏像も組み入れられていました。
この兵庫城跡が昨年。発見されたときにありました。天守台が発見されたと言う事から。今回の説明会になりました。歴史愛好家が来て写真を撮影しておられました。
私が遺跡に興味を持ちだしたのは、30歳代に海外でも仕事をして、その町にあったローマ遺跡を観てからです。城は。生まれ育った町に前田家ゆかりの城跡があったからです。
昔の人々の生活を偲び想像しますね。
井戸跡
建築現場で遺跡らしき物が出てきたら、調査をしなくてはいけないのです。場合によっては、建設予定が大幅に遅れてしまいます。施工主には痛手に成る場合もあります。重要な遺跡は調査保護をして頂きたいですね。この場所には大型スーパー イオンが建てられます。
遺跡の保存ではなく埋め戻すようです。兵庫城。神戸市内で発見された貴重な平城(山城に対して)は珍しい遺跡です。埋め戻しは惜しいです。
神戸兵庫区、中央市場前の建築現場から、織田信長が築城した、兵庫城天守台が発見されました。その説明会のことを、偶然。新聞を見て知りました。
急に興味が湧いてその遺跡の説明会並び撮影に出かけました。
織田信長が、西国を攻め込むための基地としての城でした。安土桃の山城と共通した石組み、また安土城以前の建立も伺わせているとかの説明
石組みにはどこから奪った塚石も組み入れ、未完成な仏像も組み入れられていました。
この兵庫城跡が昨年。発見されたときにありました。天守台が発見されたと言う事から。今回の説明会になりました。歴史愛好家が来て写真を撮影しておられました。
私が遺跡に興味を持ちだしたのは、30歳代に海外でも仕事をして、その町にあったローマ遺跡を観てからです。城は。生まれ育った町に前田家ゆかりの城跡があったからです。
昔の人々の生活を偲び想像しますね。
井戸跡
建築現場で遺跡らしき物が出てきたら、調査をしなくてはいけないのです。場合によっては、建設予定が大幅に遅れてしまいます。施工主には痛手に成る場合もあります。重要な遺跡は調査保護をして頂きたいですね。この場所には大型スーパー イオンが建てられます。
遺跡の保存ではなく埋め戻すようです。兵庫城。神戸市内で発見された貴重な平城(山城に対して)は珍しい遺跡です。埋め戻しは惜しいです。
例えば、そのビルの地下室や遺跡の位置をずらしも組み替えて保存しています。
イオンさん!?遺跡文化保存には興味が無いのですか? 一部だけでも保存できないかな?と言いたいな〜。
「神戸市の兵庫城 解説」より
◆兵庫津遺跡の概要◆
兵庫津遺跡は、現在の兵庫区南東海岸部に位置し、南北約2キロメートル、東西約1キロメートルの範囲が想定されています。これまでの56次におよぶ発掘調査の結果、港湾都市として栄えた江戸時代の町屋跡や寺院跡が見つかり、当時の人々のくらしぶりが少しずつわかってきました。
兵庫津の港としての歴史は古く、奈良時代の大輪田泊までさかのぼります。平安時代後期には、平清盛が日宋貿易の拠点として整備したことでも知られています。戦国時代に入ると、商業的な面だけでなく、軍事的な面でも重視されるようになります。
天正8(1580)年には、天下統一をめざす織田信長の家臣である池田恒興らが荒木村重方の城である花熊城を攻撃し、その落城とともに兵庫津もその一部が焼失しました。その直後、池田恒興により、現在の中央市場跡地付近には兵庫城が築かれます。その際には、花熊城を解体した石材を使用したとの記録があります(『花熊落城記』1732年)。兵庫津の町は、この兵庫城を中心に、江戸時代中期以降には約2万人が暮らす港湾都市として発展していきます。
兵庫城は、江戸時代に入ると尼崎藩の支庁である兵庫陣屋となります。その後、明和6(1769)年以降は幕府の直轄領となり、出先機関として勤番所が置かれます。明治時代には最初の兵庫県庁が置かれました。平成16年に行われた第35次調査では、城跡の北西隅を調査し、勤番所時代の石垣を確認しています。
兵庫津は中世以来、幕末の神戸開港まで港湾都市として発展していましたが、その湊町兵庫津の中心部に築かれた兵庫城は、港湾との関わりを強く意識して築かれた城であったと考えられます。