親 兄弟 隣人 国を 

愛し守ることは素晴らしく 良い事です。国を愛する、親 兄弟隣人を教える教育の基盤は家庭です。
現代は教え育てる事が、今は学校頼りになってきている気がしませんか?

親 兄弟 隣人 国を大切にして守ることは、国々の家庭で教えられ、また十戒ほか聖書にも書いてあります。 

教育勅語にも書いてるから、 クリスチャンとしても共通しているから、良いのではないか?と思う方もおられました。聞いてびっくりしました。下記が現代語訳の教育勅語です。
訳詞方には微妙に 人によって使い言葉が違う気もしました。画像をクリック タッチすると拡大します。
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天皇家のために、天皇に尽くす教育推奨です。
国を大切にするようにー天皇家の継続のために、親や兄弟を仕える目的も天皇のために共読めませんか?

天皇を中心にしているか ・天の父なる神中心に心に据えるかは。その違いは大きいです 

何故なら 王や天皇が 父なる神に仕え、神に栄光を返す信仰を持っているか。いないか?神>
神道の神では無くて 天地創造の主である父なり神、御子、キリストの神に仕えているかの違いは大きいです。)本当の国の繁栄になるか?ならないかの違いも生じます。ユダヤの歴史を見れば一目瞭然です。

天皇が国の象徴の現在だから 国民 日本人は分かっているから 国粋では無いと思う人も居るかもしれないです。 第二次戦争後は、海外からは 天皇を中心に軍国教育された 教えだと思われている。

 教育勅語はクリスチャン的と言い切るのは、父なる神を中心にキリストを信じ、その権威を受け容れているのだろうか?同じくにを愛する言葉が書かれた有ってもその権威の所属が違います。
直接 キリスト 神に聞いて祈るか?  
パウロ ペテロ マリヤ 聖人達を介して祈るかの本質的な違いのような 感じ、違う気がします。如何でしょうか?

一番は、幼い頃に繰り返し教え込まれたら、その人の人生 人格にさえ影響します。幅広い知識を提供する。柔軟に考える知識提供することが教育ではないだろうか。 一つを偏り教える、選択が無いことは洗脳教育ではないだろうか? 

嫌な話だが、戦争中の間違った情報を教え続けている韓国 中国。許しと未来志向の両方を教育するなら良いはずだとおもうのです。
教育を受けた本人の選択出来ないなら、洗脳教育に繋がらないか?
 
昔は、天皇が中心に教育勅語だった。しかし、今は 国民主体だと両方教えるのは可能です。
パン屋を和菓子屋に変えたり、おじさんをおじいちゃんに変えて道徳教育する本質は、現代教育からズレてはいないか?これで良いのだろうか?
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教育は人を育て守る(保護する)為にあり、人生を生きる自由な選択肢の知識を得るためにあります。法律も同じく国民を間違った方向に行かないように守る目的が法律の土台です。
 選択肢の無い教育は無しです、聖書の神でさえ、人間には自由の選択意志を与えられました。 
神を中心に据えるならば その人 国は栄えます。詩篇1章から。
 神の側に留まるならば その人は木のように成長して栄えると記されています。

*いつも心の風景から、聖書の愛と福音からの癒やしの記事をご覧下さり有難うごさいます。読まれた後。もし宜しければ、下記の投票のボタン 各項目バナーを押して下さいませんか? 未だキリストを知らない人々にも 目が止まりやすくなる為です。感謝申しあげますブログランキング・にほんブログ村へ
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