追悼記念誌が届いていました。

 もう十日ほど前のことですけれど、改めに読み返しました。

昨年帰国し、亡くなられました。 アメリカ、アトランタ。邦人宣教に出かけておられました。高橋和子宣教師先生でした。

追悼誌
高橋先生に始めてお会いしたときは、1992年でした。高橋先生は当時、58歳でした。
私が田舎の富山の教会にいた頃のことでした。私も足かけ12年ほどの海外生活から帰国したばかりだったと思います。 海外に在住日本人にも アフリカにも、沢山の牧師が殉教した東ヨーロッパにも、献身し働き人の必要性を感じて帰国したばかりでした。

 高橋先生は、優しく柔和と言う言葉がぴったりのお方でした。私もその頃は未だ40歳代でしたので、おばあちゃんと呼ばれてもおかしくない年齢の婦人。高橋先生が、いまから・・60歳に手が届く年齢にも関わらず、USA滞在ビザの収得に奮闘して 邦人向けとは言え、この年齢で・・宣教師に・・!!驚きが先でした。 
また同時に頼もしくも思えて、先の私の感想、宣教働き人の必要を満たして下さることがとても嬉しく感じた次第です。

 わたしは、高橋先生に、『失礼ですが、どうしてアメリカに行かれるのですか?』と率直にお聞きしました。『実はね。アメリカに旅行して、聖書を読む会をしたら、神様は、私を捕らえられたのよ!』といとも簡単に、笑顔で答えられ、益々感動しました。
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翌日。東京に帰られる列車にぎりぎりに間に合い、失礼ながら献身を直接手渡す事が出来ました。その後。直接の連絡はあまり取らなかったのですが、お手紙が良く届きました。背後には、先生を心よく送り出され支えられた事務局のご努力も素晴らし待ったですね。東京町田の松見ヶ岡教丘の皆様です。良く支えておられました。

高橋先生4

 私も50歳になり、献身を考えている頃に、お手紙を出しました。最初は献身のことを相談する気持ちで書き始めたのですが、取りやめて挨拶状になってしまった記憶が在ります。高橋先生の年齢から、スタートした、宣教がとても祝されていると知って、私もいまからでも遅くないと意欲が湧いた・・思ったからです。 


それから、神学校に入学しました。その背後には、献身的に、私を支えて下さったお一人の兄弟の賜物で、3年間。学べました。そうそう、神学校在学中には、自筆のお手紙も頂きました。励まされましたね。

献身には年齢は関係ないと、改めて思っているます、でも支える方がいなかったら出来ないですね。
記念誌を読み返し、ご苦労も忍ばれますが、沢山の方々に愛されておられた先生でした。何となく気になる先生でした。アトランタから機会と場所のあるところ。喩え遠方 アメリカは広いですけれど・・邦人のために救いの為に働かれました。 昨年の夏に75歳で天に召されました。 

 ご病気だったのですが、私は知らなかったのです。しかし、その頃には良く、高橋先生とであった富山のことと高橋先生のことを、良く思い出して祈る事が出来た事も不思議ですね。何故かはわかりませんが・・あまりにも気になって、事務局にお訪ねしましたら、葬儀が終わったとお聞きして愕然としました。

その葬儀のDVDも頂きました。 また素敵な記念誌も頂きました。本当に愛された高橋先生でした。献身生活には支える方がいないとつぶれます。しかし、高橋先生も素晴らしい支えの献身的な事務局の皆様の存在もあります。何かと連絡をして下さいました。その事務局の皆様と牧師先生。教会に祝福を祈る次第です。 神と人に愛されないと、良き働きが出来ないな〜と思わせ考えさせて下さった先生でした。 神戸で開拓宣教を始めた頃に、カナダ、カルフォルニアに行く機会がありましたが、アトランタは遠かった?資金不足でした。重ね重ね残念です。でもこれ主のお心だったのかも知れませんね。ネットは世界に通じますね。天国にも通じると良いな〜〜

高橋先生!安らかに 主と共にお過ごし下さい。