うたれた傷によって、私達は癒やされた。

この言葉は、キリストの生涯に関しての預言です。神の子キリストが、ユダヤに生まれること、苦しみの中に、私達の罪を担って死ぬ事が予言されました。

イザヤ書
53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

キリストが生まれる前に予言者イザヤから語られ、その後、それがキリストによって実現しました。預言の実現は、信じて、信仰の備えが大切です。passion_main


歴史をさかのぼる事、出エジプトのエリムの泉では、神ご自身が、『私は主、癒す神で在る。』と宣言なさいました。

 エジプトからの数百年に及んだ奴隷から、ユダヤ人は、神によって救出されて、約束の地、ユダヤの地に向かいましたが、途中の砂漠の中で飲み水が無くなりました。要約。見つけたエリムの泉はとても苦くて飲めない水でした。砂漠の中で水が無いことは、差し迫った現実としては受け入れがたいものでした。

 「神の救いを信じて、此所まで来たのになって言うことだ!」突きつけられた現実に、不満や不安を言い出しました。神は、神の約束を信じ切れない人に怒りを持たれましたが、同時にそれでも信じる者を探されました。
一本の小枝を、苦くても飲めない泉に投げ入れるように言われました。すると苦い水=現実が・・甘い水に変わりました。 一本の小枝は、十字架の象徴です。

 その後、神はモーゼに語られました。

 出エジプト記
15:25 モーセは【主】に叫んだ。すると、【主】は彼に一本の木を示されたので、モーセはそれを水に投げ入れた。すると、水は甘くなった。その所で主は彼に、おきてと定めを授け、その所で彼を試みられた。
15:26 そして、仰せられた。「もし、あなたがあなたの神、【主】の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行い、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは【主】、あなたをいやす者である。」

 罪の許しの象徴である十字架は、アダムの原罪と私達の罪を許します。アダムの罪が無ければ、アダムから引き継いだ原罪ナ無ければ、病も無く、産みの苦しみも無く、( クリスチャンは、一般的に産みの苦しみは少ないとか!たしかに私が関わり祈った妊婦クリスチャンは、助産師から、お産が軽かったと聞いていますよ。 ) 額に汗してパンを食べる事も無い。神に従う時には、経済的な祝福を得られる約束されている。
罪とは、神の思いから的(まと)が外れることの意味です。

 同じ、出エジプト記には、民が神に逆らい、罪を犯したときに、神は怒られて、毒蛇を民の間に送られました。

 民数記
21:6 そこで【主】は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。
21:7 民はモーセのところに来て言った。「私たちは【主】とあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、【主】に祈ってください。」モーセは民のために祈った。
21:8 すると、【主】はモーセに仰せられた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」
21:9 モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。

 『たかが、青銅の蛇を見ても、苦しみの現実からは何になるか?』と思った人は命を落としました。けれど、信じて見上げた者は命を得ました。旗竿とは、キリストの救いの福音であり。竿とは十字架の意味があります。
images


 私達は苦い現実、足元をみて、そのギャップから、神の約束を不安視してしまいます。 天国に在る約束と救い。先ず、その事を硬く信じなくては、この地上で、天国の恵の延長の実現は在りません。
天においての命が、地上で現れ、癒しが起きます。天国に置ける祝福が、地上での幸せ、平安をもたらします。

 神の十字架の許しは、全ての罪が原因で起きる災いから、私達を護り救います。私達は先に信仰告白をして、信じて祈ります。現実に打ち勝つために起きていないことを、起きたかのように告白して、受け取っていないことを、受けたかのように感謝を捧げます。

 不安と疑いは、心の中に、サタン、悪霊に、私達につけ込み、災いの足がかりを作り与え、賛美と感謝の生贄を、父なる神様に、聖霊に、そしてキリストに捧げましょう。


 約束と現実は、在る意味、霊的戦いです。

 サタンは、強烈な現実を押し付けてきますが、主の祈りに在るように、『私達から災いを遠ざけ、悪より救い出してくだい。サタンのする事から切り離してください。』との意味が在ります。

 キリストは、十字架の上で完成したと言われました。キリストの完成した業を信じて受け取りましよう。

信じた者には、平安と癒しがあります。経済的な祝福も、神のルールに従うなら 、私達が受け取ります。

 経済的な祝福の注意

 経済的な祝福と言いましても、贅沢な暮らしを指して這いません。

 主の祈りの言葉には、「日々の糧を与えてください。」とあります。時には、神に従っていたエリヤもも飢饉の時がありました。エレミヤも飢饉がありましたが、神が支えて守られました。暮らしを支える神の経済的な祝福を指していることを指しています。

 生活苦や不安を抱かずに、神に感謝の捧げ物。賛美の捧げ物をしていきましょう。

詩69:29 しかし私は悩み、痛んでいます。神よ。御救いが私を高く上げてくださるように。 69:30 私は神の御名を歌をもってほめたたえ、神を感謝をもってあがめます。 詩 71:21 あなたが私の偉大さを増し、ふり向いて私を慰めてくださいますように。

そのとき私は言った。「私の弱いのはいと高き方の右の手が変わったことによる。」 私は、主のみわざを思い起こそう。まことに、昔からのあなたの奇しいわざを思い起こそう。 私は、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたのみわざを、静かに考えよう。




 キリストの パッション http://youtu.be/ySknA_zoKoQ