ようやく首相会見が行われ行動自粛願いが出され、
人々が多く集まる事を避ける警戒感が高くなりました。

すると、教会での礼拝の為に集まる事を避ける教会も出ました。聖書には、「集まる事をやめないように。」と書かれているから、と礼拝集会を止める事を非難する方も出て、私は驚きました。

人々が集まることと礼拝とはまた別だと思います。
聖書の言葉からの強引な縛りの足枷で大勢の人が病気になって感染症を背負ってしまったら、礼拝そのものが継続できなくなります。人々が集まり、そこで大勢の人が病気になって感染症を背負ってしまったら礼拝そのものが継続できなくなります。
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神は守るから集会をやめないと言い切る方には違和感をもちまして、クリスチャンであっても病気はします。もちろんキリストは病から癒す神ですが、病気にならないように事前の注意や健康管理は必要だと思います。重症になってから神に癒しを願うのはちょっと筋が違うような気がします。

礼拝の意味、そのものは神が語られた事に対して従いお言葉を守る事が出発点です。エデンの園でアダムとエヴァは、この神の言葉を完全に守ることができませんでした。
アブラハムは、神の言葉を期待し何年も待ち続け、失敗もしましたけれども、その間。生贄を捧げ(自己犠牲)礼拝を続けてきました。
アブラハムやその他の預言者たちの礼拝はあくまで個人的なものでした。各自が心から、神の言葉を聞き分け従う心。礼拝の基礎が必要ですね。

出エジプト後、モーゼの時に神の心、思いを伝え理解させる為の小グループが作られました。これが主の前に集まる集会の基礎になり、カナンの地に定着後も聖書を学びのシナゴグとなりました。
ダビデが作り上げた神殿は神への感謝と賛美祈りを捧げる。献身の犠牲を捧げる特別な場所になりました。
現代の教会の集まりは、ダビデの神殿の要素とシナゴグ(聖書を学ぶ=神の御心を知る)の2つの要素が有ります。
前記の意味をしつかりとわきまえるならば、今回のような全国的な感染症のために、集会を一時的に止める事は決して御心に反することではないと思います。長い歴史の中では戦争や疫病で集会ができなかったことがあります。
                
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どんな時も優先的に重要視されるのは、各自が神に仕える心がなければ本来の集まるダビデの神殿の意味が半減してしまう気がします。

神と各自、個人的に霊的に交わる時、感謝と賛美、献身が聖霊の導きの中でコイノニアが成立します。集会後の人との交流の楽しみだけがコイノニアでは有りませんね。
父なる神、神子キリストの心 考え方を聖霊の助けで共有すること、従えようになる事、第一に神との共有する 出来る事がコイノニア本来の意味と目的です。

確かにどんな時も集まりをやめない努力は必要です。しかし繰り返してきたように、各自が神との深い交わりを求めなければ、集まりそのものが虚しくなってしまいます。アブラハムは、たった1人で礼拝を続けました。神に仕えました。そして義とされたことを忘れないでください。

日本と世界に広がる感染症が1日も早く収まるように祈ります。その国のリーダー 首相 大統領に神からの祝福と守りがありますように祈ります。

世界に広がっている感染症の流行を通して、私たちが神の栄光を、救いを、愛と哀れみを深く知ることができますようにとお祈りします。
私たちが、さらに多くの神の栄光を崇め見ることができて、多くの人々が救いに導かれるようにお祈りします。

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