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心の風景、愛の聖書、福音と癒やしと日常から。ミカエル小栗

ミカエル小栗がつづる心の風景。聖書の福音は愛と救いと癒やし。日常の出来事の心の雑記帳風景ブログです。聖書に基づくカウセリング、祝福と救いと心の癒やしを祈ります。あなたの教会のメッセージ奉仕もします。ご依頼はメールにて!

タグ:父

イエス様の意思は祈りなさい!

癒しなさいでしたね。 最初、弟子たちは出来ませんでした。 癒しの本質的なものが理解して遂行することには 経験 信仰を深くし 聖霊にの助けが必要です。御心との一致に至るまで諦めない強さ 信頼度を求められました。神への期待 感謝 賛美は絶対的にいつも いつも大切だと思います。


さて、あなた自身の為に  あなたをいつも覚えて あなたの願いにフォーカスして祈ります。神には出来ない事は有りません!キリストは病を癒しなさいと命じました。
神様があと押ししているのです。 
           

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しかし、私たちの信じる力がややもしたら 残念だけど不足します。信仰は川の流れと似ています。強い日 そうでもない日 川の水が止まる日があるように 私自身もそうなんです。

聖霊に満たされてている時 自分自身がビックリ‼️満たされていないと 癒しどころじゃなく 信仰さえも消えそうになる日も正直なところ有ります。

奇跡を起こすだけの信仰を あなた為に 神様の助けを求めます。

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むなしく座して嘆息し、悲嘆にくれるないで!愛する名医 第一主治医であるイエス様がおられる限り、望みはあるのです。否、いかにひどい病であろうと、確実に回復する見込みがあるのです。

そこで思い出すこと、主の祈りの第一は、「御名が崇められるように、栄光が来ますように、」でしたね。 様々な願い、癒やしの第一に祈らないで、神の栄光を、その御名が崇められるよう第一に祈りませんか?わたし達のことを全部。知っておられる全知全能の神 父 御子 聖霊に委ねて決意で第一に御名が崇められる様に祈りませんか?

すると、あなたが神を崇める気持ちから、父なる神からの恵みがあなたに下ってきます。
弱い弱い・・信じ切れないと嘆かないで・・、助けて下さる聖霊様を歓迎しませんか?
御子の栄光、御名が崇めることが出来るように聖霊は力添えをして下さいます。
あなたが信じれる、父なる神に甘えること{信頼仕切れる、事が出来るように}聖霊様は導いて下さいます。結果的には、おぼろげだったことが明確に分かるようになります。
様々な願いや癒やしがあるようになります。 そして、一段と明確になって 神の栄光を見ることが出来るように変えられます。

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『天に居ます父なる神。あなたと御子と聖霊の御名を、以前に増して 御名の栄光を慕い求め、更にあなたを崇めることが出来ますように、』

 主はみことばを送って彼らをいやし、その滅びの穴から彼らを助け出された。(詩篇107:20)

主が、みことばを送って、これらを溶かし、ご自分の風を吹かせると、水は流れる。(詩 147:18 

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聖書の中には

直接、三位一体という言葉は書いて有りませんが、聖書の中には、父なる神、御子キリスト 聖霊の人格と働きが書かれています。

いつ頃、この三位一体が、私たちクリスチャンの間に認識され、キリスト教の公的な神概念として確定されたのでしょうか?

三位一体と言う言葉はギリシャ語からの由来です。当時の教父 心学者によって
ニケア会議 AD325年において公認 議論されてきました。

コンスタンティノポリス会議 AD381年で アタナシス信条として採択されました。
その後のカルケドン会議 AD451年 承認されました。「
ニケア・コンスタンティノポリス信条」として称されるようになりました。
「根、木、果実。海、陸、空の関係。」の関連性から三位一体論の確立に 次の人物が深く関わっています。テルトリアヌスから、アナンシウスへ。そしてアウグヌスティヌスの三位一体論 AD421年に完成しました。

アウグヌスティヌスの三位一体論の中には、「聖書によって、父と御子と聖霊は一つの同じ実体の不可分離的に等しくあって神としての統一性を示している。したがって3つの神では無く、一つの神であり、父なる神は、御子を生み出し、御子は父なる神とは別の人格の神である。聖霊は御子でも無く 父なる神でも無い別の人格の神である。そして聖霊も 御子も等しく父なる神と三位一体の統一性を保っている」と要約しています。
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第1ニカイア公会議(325年) 第2ニカイア公会議(787年)
信条として決まった事は下記に。 

わたしは信じます。唯一の神、 カトリック教会で使用
全能の父、
天と地、
見えるもの、見えないもの、すべてのものの造り主を。
わたしは信じます。唯一の主イエス・キリストを。
主は神のひとり子、
すべてに先立って父より生まれ、
神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、
造られることなく生まれ、父と一体。
すべては主によって造られました。
主は、わたしたち人類のため、
わたしたちの救いのために天からくだり、
聖霊によって、おとめマリアよりからだを受け、
人となられました。
ポンティオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられ、
苦しみを受け、葬られ、
聖書にあるとおり三日目に復活し、
天に昇り、父の右の座に着いておられます。
主は、生者(せいしゃ)と死者を裁くために栄光のうちに再び来られます。
その国は終わることがありません。
わたしは信じます。主であり、いのちの与え主である聖霊を。
聖霊は、父と子から出て、
父と子とともに礼拝され、栄光を受け、
また預言者をとおして語られました。
わたしは、聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会を信じます。
罪のゆるしをもたらす唯一の洗礼を認め、
死者の復活
来世のいのちを待ち望みます。
アーメン。


プロテスタント 使徒信条

我は天地の造り主(つくりぬし)、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子(ひとりご)、我らの主(しゅ)、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生(うま)れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架(じゅうじか)につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを審(さば)きたまわん。
我は聖霊を信ず。
聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。
アーメン

ウェストミンスター信仰告白も上記に準じています。


続く!


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キキョウの花が好きです。
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ムラサキ色の色合いも好きですね。私の父も好きだったようで、鉢植えにしていました。
そんな父との思い出も好きだから、桔梗が好きに成ったのかな?
父は寡黙であまり会話は少ない方でしたが、幼い頃は、良く父の膝に乗せてくれましたね。そこは私の特等席でした。父のあご髭に触ったり、父の食事を分けて食べさせくれたり、羽目を外したら叱られました。

しかし、父の愛を感じられる特等席でした。
天の神、父なる神をイメージする時には、幼い頃の父の膝の上で祈る お願いする 甘える 叱られれるとイメージして仕舞いますよ。

桔梗の花言葉、変わらぬ愛と知り、天の父との愛に感じます。感謝します。
誠実 従順も 桔梗の花言葉に含まれていますね。
キリストのご性質にありますね。
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十字架に掛かる前には、王や高貴な人しか着る事を許されていなかったムラサキ色のマントを、キリストに捧げた人が、ドロローサの道沿いにいたようですね。

そのマントは、ムラサキ貝から採った染料で染める高価な品を捧げた人がいたようです。
ナルドの香油同様、それ以上に高価な品を捧げた人がいたのです。
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ローマ兵士は、そのマントをくじ引きし分け奪い合いをしました。

私はムラサキ色の衣はキリストに相応しい王様の着物だと思います。また、ムラサキ色の衣を見ると十字架に掛かった主を連想します。感謝します。

全てに包み込まれて、守られ導く神に感謝します。

『民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。 あなた方の心を観前に注ぎ出せ。神は、我らの避けどころである。』詩篇62の8

私たちの生活、人生を注ぎ出して、神に叫び訴える。それが祈りですね。

病いの癒し。 生活上の様々。 教会内の様々。
神に叫び祈りです。神に訴えるのです。

神の答えを待たずして、自分で解決したかに見えても、また、別な問題が発生します。

神の回答は完璧です。

エレミヤの33の3より
《神は私たちには、大いなる事を語りかけたいのです。》

しかし、私たちが叫びきるのを待って見守る神のご性質を知らないといけない気がします。

飢饉からエジプトに行き。ヨセフが、大臣に成っていた神の計画。
しかし、飢饉が、問題が終わっても帰らなかったのは、ヤコブの子供達、後々のイスラエル人。一つの選択肢が間違えたが、神は見守る。

パロが変わり、奴隷に成り下がります、イスラエル、ユダヤ人は黙る。声に出さない、個々につぶやきばかり?
神の素晴らしさを先祖から聞いていたにもかかわらず、、。

更に時を重ねて、ようやく、イスラエルは、民とし一致したかに叫び声を上げて、神に訴えて、神はようやく腰を上げました。
モーゼを育てるのでした!

黙祷では無く、叫びの祈りをしました。
『神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム イサク ヤコブとの契約を思い起こされた。出エジプト2の24より。

海で溺れそうです。黙っていたら見つけて貰えないですね!叫びきるのです。 '(神よ。私は此処にいます、助けて、助けて! 問題につぶれそうだ!〉て、普通 大声出して叫びませんか?
私は此処に と、注目される様に叫びましょうか?

世界中の願いが、キリストの名前で父なる神の観前に上がり中ですから、。注目される様に叫びませんか?

叫ぶ力が無くても、嘆き 呻きませんか?
『主はその聖なるい
と高き所から見下ろし、天から地の上に目を注がれました。捕われ人のうめきを聞き、死に定められた者を解き放すために。』 詩篇102の19.20


過日の事。急にヘルニアの激痛に襲われました。叫ぶ力は無く、痛みで呻きながら激痛の中 痛みよ引け!と一晩 呻き声を出しました。すると翌朝には病院に行けるだけには成りました。診断した医師は、『普通はあり得ない状況だよ!』と驚いていました。

医師の診断後は、安心した?矢張り歩けなく成りました。今、思うには、完治を叫べばよかったかな!?
激痛に負けて、病院に行けることを叫び願ったからかな? と思う次第です。

叫ぶ力をどうぞ、あなたの祈りに取り入れてはいかがでしょうか?
神にしか解決出来ない事が多いですから、

教会内でつまずき、不満を抱く人も、傷付いた人も、神に叫び直してはいかがでしょうか? 人に愚痴っても、一時的な慰めの言葉に満足しては、神からの愛による本当の解決には成りません。
皆様方の祝福を祈ります。


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