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心の風景、愛の聖書、福音と癒やしと日常から。ミカエル小栗

ミカエル小栗がつづる心の風景。聖書の福音は愛と救いと癒やし。日常の出来事の心の雑記帳風景ブログです。聖書に基づくカウセリング、祝福と救いと心の癒やしを祈ります。あなたの教会のメッセージ奉仕もします。ご依頼はメールにて!

タグ:洗礼


3月3日 ひな祭りですね。ひな祭りの人形に生まれた子供の災いを身代わりになってもらい川に流す習慣がありました。今は雛人形自体が高級品となって川に流す事は無いけれど、紙に書いた雛人形を流す習慣が今でもあるようです。

さて、1968年、昭和38年の大雪のひな祭りの日に私は洗礼を受けました。14歳でした。時の流れはあっという間です。
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教会に行って2回目にイザヤ書53章の朗読があり、その言葉から意味を知りました。
私たちの災いや苦しみや病をキリストが背負ってくださると言う事を知り、納得出来ました。


イザヤ書53章には以下の言葉が書かれてあります。

53章1〜12節 * 主とは神のこと

1、私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか。

2 彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。

 53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

 53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

 53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

 53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

 53:7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。

 53:8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。

 53:9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。

 53:10 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。

 53:11 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。

 53: それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。



14歳だった私は朗読なされた意味の全てをその場で全部理解は出来ませんでしたけど、キリストは人を知らず生まれ十字架にかかった事は知っていましたが、イエス様の生涯が生まれる前の紀元前701-681年の間に書かれその通りになったことに驚きました。

またそんなに簡単にイザヤ書の言葉が納得できたこと言いますと、「打たれた傷で癒される。」と言う言葉から納得できたのです。この教会に行こうと思い立った理由の中には、私自身の扁桃腺の癒しを体験していたからです。この教会に行く半年前ほどに、私は扁桃腺の手術のため2人部屋に入院しておりました。
隣のベッドの人がラジオを聞いており「うるさいなぁ〜」と思いつつも、ラジオで語られている福音放送に少し耳を傾けてしまいました。
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外国人のたどたどしい日本語で、「病気で入院している人がイエス・キリストによって癒されるように。そう思う人はアーメンと言いましょう!」のアナウンスに耳を傾けてしまい、
キリストに祈る意味も良く理解してはいませんでしたが、本当に神様がおられるなら、治りなりたいと、アーメンの意味もわからず、この神様にお任せしようと決心して・・「アーメン!」言った途端に頭からつま先まで何か?電気が流れるようス〜ッとスキャンMRIされるような感覚に襲われて感動感と温かさ包まれ、なぜか涙が溢れてしまったのです。

ちょうどその日は私が手術した当日だったので看護師が何度も検温をしに来て首をかしげて「不思議ねー熱が出ないわ!」と言いながら何度も何度も検温を繰り返しに私のベッドの間を往復していました。
後で知った事は手術後には高熱が出るらしいのですが、一切。高熱が出ていなかったと後々に、看護師の方から伺いました。手術の傷跡も一般よりも早く治りました。


そのことが心にあってキリストのことを知りたいなぁと思い始めて、たまたま同級生にそんな話をすると、「それならあそこに教会がある。俺もそこの教会に何回か行ったことあるから一緒に行こうか。」と教えて誘ってくれたのです。そして初めての教会に行った日がちょうどクリスマスの日でした。クリスマスの御祝いの時、教会って楽しそうだなーと思いました。


話を戻して、先ほどのイザヤ53章から、預言は驚きでした。キリストの生まれ、その生涯が書かれた通りにそれは実現したことに、驚きを隠せませんでした!!キリストが十字架に掛かった後に蘇った、復活したことを知り驚きました。

14才でしたが、キリストは人知れず家畜小屋で生まれたことと十字架で死んだことくらい知っておりました。
予言通りになり。人の苦しみや病を身代わりになったんだと前記のイザヤ書を読み上げた後、詳しく教えて下さり理解しましたし、私を癒やされた信じようと思いました。

何があってもこの神様、キリストから離れないようにしようと決心しました。

幼かった私は罪に対する自覚はあまりなかったと思います。ただイエス・キリストが、父なる神が真の神 創造主であることを信じることができました。

小さく祈った印を求めたとき、クリスマスの星のように流れ星が観たいと呟いた途端に。それが目の前にあったからです。そして、この神、キリストを一生涯 礼拝していこうと心に決めました。

両親は仏教を信じていてその様子を見ていてあまり仏と言う存在に疑いを抱いていたからだと思います。なぜなら仏を信じている両親を見ていて苦労ばかりしていたから良いことないと幼心に思っていました。

成長するに従っていろいろ問題を抱えてきました。そして罪の意味も成長するに従ってわかってきてそれを神様に委ね許しを乞うこともできるようになりました。
妻の癌、その死を経験し、なぜ先に死んだのかと思い悩みました。神様はすぐには回答は出しませんが、それ以上の大きな慰めを私に与えてくださいました。


また大きな奇跡、母のアルツハイマー記憶喪失認知症からも神は癒してくださいました。医者も奇跡だと語り、母は自分の口で告白して洗礼と聖霊(異言も)を受けました。

そのたびにキリストに救われて導かれました。キリストはすべての苦しみと問題や病を背負って取り去ってくださったからです。

前期のひな祭りの言われ以上に、キリストの身代わり背負ってくださる事は真実です。
紙に書かれた雛人形よりも、木でも石でも彫刻された物も沢山ありますが、それらに神々よりも確実に救いを与えます。確実に癒してくださいます。もしあなたが心から信じきるなら、。

完全に信じきれなくても、少しの不信仰でも、キリストの身代わり、罪からの解放を信じる事が出来るなら、神は私たちを見捨てずに、導いて私たちの思いと信仰を変えて下さいます。

それら以上に、先に挙げた彫刻された神々にはできなかった復活がキリストにはあるのです。キリストこそが真の神です。
私たちの苦しみや悲しみの元になっている罪 怒り 憎しみ等をイエス・キリスが身代わりとなって背負ってくださるのです。

ひな祭りと流しびな、復活の唯一の神、イエスキリストは流し雛より確実に、全ての災いや苦しみ、病を身代わりになり取り去ります。更に重要な事が有ります。

私たちが真の神を、知らず身勝手な生活、神様の思いから外れた的外れなこと。キリストの教えではその的外れな行動や考え方を罪といいます。十字架の死が、私たちの身代わりで、その代価としての死を、十字架の死が身代わりだと信じるとき、キリストがすべて背負います。
十字架で、私たちの身代わりに死んでくださって罪を許すだけでは無く、新しい命で生きるようにリセットできるように復活してくださいました。
キリストの十字架の死は単なる死ではなくて、私たち、あなたの為です。

私は今も父なる神、主イエスキリスト、聖霊を心から賛美し感謝します。この神様から何があっても、例え大きな過ちを犯したとしてもキリストから離れないでいようと決心しております。悔い改めるとき、告白して許しを求める時に、神はキリストの十字架を通して許して下さるからです。

神から離れない決心には、詩篇第1のお言葉があるからです。
詩篇1:2 まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
 1:3 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。

栄えるとは経済的なこと、名声的な意味より心の豊かさ、キリストに在る救いだと私は思います。

キリストを信じてもたらされる霊と魂の救い 心の平安があなたにもありますように
お祈りします。



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昨日。

 カナダからのクリスマスカードと手紙が届きました。
カナダの国旗にもなっているメープルカエデの葉っぱが押し花されていました。
カナダ在住の友人夫妻と出会って18年近くが過ぎました。
 トロントには私に洗礼を授けて下さった宣教師夫妻が住んでいました。その夫妻を訪ねる事と、その頃。大きなトロントのリバイバル教会での特別なセミナー期間中ではない普段の教会を様子を知りたいと願って留学生が寝泊まりする家の一部屋を借りて共同生活・・と言っても、朝から毎日の礼拝には教会に行っていたので、寝るために下宿屋に帰るだけでした。
その大きくリバイバル中TACF教会には日本人。昨夜 クリスマスカードを送って下さった日系一世の夫妻と親しくなりました。
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その夫妻の姉夫婦が大阪府に住んで居られました。依頼を受けて福音を語り伝えて信じて洗礼を受けられました。FACF教会ではリバイバル中で、何か大きなセミナー集会が開催された時には、日本でも有名牧師がセミナーに参加しておられました。

けれど、その有名牧師先生たちに依頼をなさらず、私を指名して下さったことを、その夫妻と神に感謝をして、何度も姉夫妻をお訪ねして洗礼を受けて下さったことを、神様に感謝しました。
娘さんが日本に来たときには、神戸を案内しました。


*いつも心の風景から、聖書の愛と福音からの癒やしの記事をご覧下さり有難うごさいます。読まれた後。もし宜しければ、下記の投票のボタン 各項目バナーを押して下さいませんか? 未だキリストを知らない人々にも 目が止まりやすくなり為です。感謝申しあげますブログランキング・にほんブログ村へ
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 自宅に向かいました。

 病室で色々話して、聖書を、キリストの救いを説明してきたことがありますが、やはりそこは病院です。
医師や看護師の方が出入りをしますので、必然的にユックリとは話が出来ない事が多いです。

 事前にそのことを祈っていたら、急に一時退院が、決まりました。ですから自宅で寛ぎながら、キリストの福音を話すことが出来ました。

再確認をして、十字架に掛かったキリストは、神が思う事。願う事から、私たちが的外れな事をしてきた、私たちの代わりに、キリストは裁かれて十字架に掛かって死んで、また三日目によみがえったと信じるだけで、永遠の天国に国籍を持つように成り。永遠の命を天国において頂ける。また十字架の恵みとしての癒しを説明して、洗礼を受けるかどうかを聞きました。

洗礼は、私たちが十字架で実際に掛かって死ぬ事と象徴であり、また水に沈み死ぬ事。水によって洗い清められる事の象徴だと説明。死の世界から、清められ神の国に入るための結界だとも説明しました。

確認後、本人の口で告白。受けると言われましたので、洗礼を執り行いました。

病床洗礼




癒しを求める事が今まででした。 癒しを通じて神を知る。神の栄光を知るためでした。
けれど、ハッキリと洗礼を受けた後には、癒やし第一では無く、永遠の命をお与えになる、私たちを心から愛して下さる父なる神様ご自身を求めるように伝えました。神を愛することは、癒やされること以上に大切なことです。

神の愛は十字架の救いを信じる以外には無いのです。何か、私たちがした、するからでも無いのです。
何も出来なくても、神の愛は変わりません。私たちが何か過ちを再び犯したとしても、最初の愛に、原点に立ち返るなら、神は私たちを見捨てません。

 彼女のお母さんも同席していて、キリスト信じて洗礼を受けられました。
洗礼 洗礼後に、聖霊の満たしを祈りました。
身体が温かくなってと言われました。神様、聖霊に触れられると、身体が暖かくなることが多いですね。

 また洗礼式後には、聖餐式もしました。十字架で裂かれた身体の象徴として、パンを割きます。流された血の象徴として葡萄酒=ブドウジュースなどを飲みます。 とても満たされた良い式でした。

病院に行く予定でしたので、仰々しい式服などは着てゆきませんでした。 自宅で良い洗礼式ができて、余計に感謝でした。弟子のピリポも旅の途中に、そこにあった水で洗礼式をしていますね。
そんなわけで、仰々しい洗礼用水差しも持って行きませんでした。台所でくみ上げた水を、聖別の祈り後に使いました。


昔は、白血病は一度の骨髄移植でした。今は数回。移植を行うようです。医療の進歩もあります。昔とやり方も違ってきています。けれど、元になるのは尊いドナーの方が・・その存在によって支えられています。

 この記事を読まれた方の中から、特に若い方のドナー登録者が出ますようにと期待します。
どうぞ宜しくお願いいたします。

日帰りのつもりでいたのです。 別れの挨拶後。駅のホームに立っていると、急に声かけられました。
ビックリしました。 ランチを共にした、クリスチャンの男性が 立っていました。
『どうぞ!一晩 私の自宅に泊まって下さって交わり祈りをしたい。』とのことで、特に断る、急いで神戸に帰る理由も無く、ご厚意に甘えるようにしました。

良き交わりが出来る晩となりました。
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