教会によって信仰姿勢が左右されやすいです。
教会では聖書の説き明かしがされます。説き明かしをする牧師によります。聖書に対する拘りや牧師自身の信仰体験 神様と向き合い方が違いますから、信徒にも少なからず影響が有ります。
牧師の話を聞いてから、話された内容が本当なのか?再確認を各自自身で聖書を調べる習慣付けが大切だと思います。
教会を通して語られるものは聖書ですが、元々 旧約聖書はユダヤ民族の為に 律法と歴史記録されました。
律法を完全に守る事は ユダヤ民族と私たちには難しいかった。
例えば、ある人の考えたこと あなたが大切だと思う人が願っている事を全部 知ったとしても、 その人を思いやりその願いを全て叶えたい気持ちが私たち自身に有ったとしても、私たちがその気持ち通り全てしてあげる事は中々困難ですね。
たくさんの要望が有ったけど困難だとわかったある人が絶対重要な要望を一つだけにして他を取り下げました。沢山有った要望がたった一つになって 私たちがその人の為にしやすくなりました。
ある人。その人とは父なる神 神子キリストです。沢山有った律法から神に近づく一つの方法を新たになさってキリストの十字架の身代わりの死を信じるようになさいました。 律法に有った 罪の罪過の生け贄をキリストの死が 私たちの最後の生け贄に取って変わりました。
律法の一つで有った罪過の生け贄をキリストご自身の身体の生け贄により終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。ローマ10章 4節
アブラハムがイサクを生け贄にしようとした時に 神は羊を用意なさったのと同じです。
人が義とされるのは行ないによらず、ただ神の恵みによって、キリストの血 罪過の生け贄を信じる信仰によることを明らかにしてくださいました。
律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。しかし、信仰が現れた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。
ガラテヤ3章 24〜26節
キリストは福音書の中ては旧約聖書を土台にして多くを語られ、ご自身は御子である事を 旧約聖書の完成を目指している事を説き明かしてくださいました。
福音書以外はパウロ自身の神学であると否定的な発言をする人もいますが、 パウロ自身も キリストの兄弟の一人 ヤコブも 旧約聖書の律法と キリストの救いの関係の重要性 習慣の関連性の大切さを訴えています。
パウロの教え 説き明かしの土台は、キリストの救いの福音と律法の関連性について話しています。ですから新約も旧約聖書も切り離せないし、現代の私たちクリスチャンにも大切だと思っています。
旧約聖書に書かれたユダヤ人が守るべきだと言われた律法の一部は、つまり異邦人の私たちへの適応は 第一回エルサレム会議により切り離されました。清めの儀式や食べ物の聖別 食べてよいものを厳しく定めた「カシュルート」 ユダヤ教の食事制限からは切り離されました。
では、その他の律法は全く無益な律法に成り下がったのでしょうか?
律法の原点は神様の気持ち 御心に基づいて、律法は私たちに神様の気持ちを伝えています。大切な事は神様がして欲しくない事 的外れな事が何であるかを 私たちに語りかけています。
この語りかけの土台となるものが律法であり、神の気持ちの的外れ=罪を私たちに教え意識させる為に重要です。律法は無益になったのでは無く完成させるために、キリストは肉体を持ってこの世に来て下さいました。
キリストの救い、罪過の生け贄が完成した後、律法は今なお、私たちに罪を(神の意志を)を示しています。ただ養育係は律法では無くなり 聖霊様に変わったと思います。
キリストは天に帰られる前に助け主の聖霊を父なる神にお願いして送られると約束して下り、ペンテコステの日に約束の聖霊は下られました。
キリストは天に帰られる前に助け主の聖霊を父なる神にお願いして送られると約束して下り、ペンテコステの日に約束の聖霊は下られました。
そして、弱かった弟子達の信仰を大胆に変えたのです。
また律法によって隣人を裁く事よりも、律法により隣人を愛する者に変わりたいと思います。いかがでしょうか?
あなたの幸せ 癒し 祝福を祈ります。
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