死に至るまで、キリストに従順に!

それが私たちの願いです。

しかしながらローマのコロッセオでライオンに殺されるような現実の苦しさ・・。

<現代ではライオンの代わりが多い>それでも聖書の言葉と現実とのギャップがある。
つまり・・祈っても直ぐには癒やされないことがある。神は癒やす神だと宣言したでは無いか?

 平和の君だと云ったでは無いか?その平和を祈れど戦争やテロがある。
祝福する<マラキ書などで>と云われたが、祈れども経済的に恵まれない事も有る。
政治から来るもの、信仰と政治に関しての方向性の違い。

 聖書の言葉が書かれているのに、現実的に起きないギャップ!
聖書が云うが鷲のように飛べない・・イザヤ書40:31と現実の違いはどのように埋めるのだろうか?
それでも様々な現実とのギャップを乗り越えて、神に期待するには、神の助けと導きが不可欠です! 
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祈りの答えが直ぐに無いからと云って 神を否定は出来ない。
聖書は神の人格から溢れた言葉だから、その神の人格に私達は期待します。
<聖書通りにならずとも、神の存在が現実です。
天国での祝福が待ちますから・・。>

それは神は私達の身代わりに死んで、復活しました。多くの神々の中で、キリストだけが雄一、よみがえった命のある神です。

私達の身代わりに十字架に掛かる、その愛と人格に期待しましょう。
ヨハ 3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
黙 2:10 あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。
イザヤ 40:31 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

鷲は高く飛ぶために、自我や古い肉体=思いを捨てなくては成らない。
鷲は成長するために自ら、そのくちばしを使い、自分の羽を抜きます。 

これを換羽、古い羽毛が抜け落ちて新羽に替ることを言います。

年老いた鷲は、自分自身の力、鷲の命の元になる獲物を捕らえる武器を捨てます。
自分自身が新しく力強く飛べる為に、そのクチバシを自分で岩にぶつけて壊します。 
爪も岩を利用して爪をはぎます。抜きます。
その痛みを自分から選択します 。そして、新しい爪とクチバシ、羽を得ます。羽やクチバシ、爪が新しくなるまでは、一定の期間は敵に襲われたり、餌もとれなく高く飛べない現実が舞っているのです。
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羽やクチバシ、爪が新しくなる為には、過去の経験から学びます。老いても学ばなかったり、選択しない鷲は、力強く飛べず、現実に負けて死を迎えます。高くは飛べません。
換羽や爪はぎ、クチバシを壊さない現状維持する。現実に負けた鷲は、そのままで死を待つのです。
私達も過去の経験を生かせることが出来るのは、神との人格との交わりの結果です。
命を延ばすため、新しい力を得て、鷲のように高く飛ぶためには、私達も現実を云う経験を捨て去るときが必要です。換羽しなければ、聖霊の風が吹いても高く飛べず、そのまま死を選ぶ 待つことになるのです。必ず高く力強い聖霊の風を期待する者だけが経験する信仰の領域を選択しなくては成らないのです。

選択できるのか、神の人格を信じたり、過去の経験を生かす事を選び取る事、自我と肉の思いを捨てることが必要になります。
祈っても答えられなかったが、神に期待したが駄目だった!とは思わずに、羽代わりの時期を絶える人が経験できる領域を神様、聖霊、そしてキリスト様に求めませんか?
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神を見上げて、現実の乗り越えるために、神の人格に期待しようではありませんか?
その人格から溢れている、聖書の言葉に期待しようではありませんか?
時が来たら、神が現実を乗り越える力の元、換羽させて<鷲だけは自分で抜かないと新しい羽が生えない!>期待を紡いでいきましょう。新しい力、クチバシ、爪と羽が与えられると期待を紡いでいきましょう。祈りが聞かれなかったことを選択して、神を捨てるのか?
小さな祈りが聞かれた経験を紡ぐかは、私達一人々の選択なのです。

終わりにイースターです。キリストの復活を賛美し感謝を捧げましょう。
私達の信仰が、この世においての現実から神への信仰へと復活するときです