フセイン氏

先日。イラクの前大統領。フセイン氏の裁判結果が出て死刑となりました。アメリカの中間選挙前の出来事であったので、私個人としては、何か意図的なものを感じました。
元々。フセインの支持基盤はイラクの中では少数派でした。過去に何度か多数派からの弾圧も受けていました。彼フセインが大統領になってからは、国内的には落ち着いていました。確か?1982年の出来事で、彼は裁かれたはずでした。(正確な年号は、ニュースでは聞き漏らしました。〉確か、私がイラク滞在中の20年も前の事です。そのニュースは伝わってはいませんでした。

イラク・イラン戦争中で、アメリカは、パパ、ブッシュ大統領の時代の事です。たとえそれが事実の事件であったら、当時はアメリカも黙認していた事になります。むしろ、アメリカ・つまりパパ、ブッシュ大統領は、イラクに対して巨額の援助をして、武器をイラク売っていたのです。何かその目標がずれています。

カルカイーダの党首を捕まえられないので、その矛先を、結果的には無かった大量破壊兵器=原子力爆弾開発をしていると言って、イラクを攻撃したのは、皆さんが既にご存知ですね。元々、イラクも欲しがった武器開発ですが、アメリカのパパ、ブッシュは技術を渡していなかったのです。
これもひとえに、中東アラブ勢力に対して、『核開発をすると攻め込むぞ!』というアメリカの姿勢誇示のように思います。特に、中東で核を持っている国に対しての誇示のように思えます。

さてそんな中での、フセインへの裁判です。日本が敗戦後に受けた、戦争裁判と幾らか共通しているな〜とも感じました。アメリカ直接裁くと中東の国々からの反発も考えて、イラク人に、その理由を見つけさせて裁かせた気がします。 

9,11のショックは大きいでしょう。その憎しみを、彼フセインを一人に負わせたようです。でもここに至るまでも、アメリカは自国の利益で、フセイン・イラクを利用した事は隠されています。
まさに勝者の裁判です。人が人を裁くには、元々無理があります。
こんな言葉があります。『神は人の上に、人を作らず、また人の下に人を作らず。』
全ては平等に存在する人間です。全ての人間に与えられている権利は平等です。
同じように与えられているのは、自由です。アメリカはこの自由を守るための戦いと位置つけています。 戦いによっては本当に自由が来て、守られるのでしょうか?

自由を定義着けるには、勘違いの身勝手以外を差し引いていくならば、相手の自由を奪わない事ではないでしょうか?相手を攻撃し奪わない自由の中に留まるなら、そこに芽生えるのは、愛と相手立場に立つという思いやりも、大切な自由の結果です。戦いより愛することを選択する事だと思いませんか? 存在だけでも、命は大切です。その命を奪わないことそこ、真の自由の戦いではないでしょうか? イエスはこの世に平和を望まれました。
その秘訣は、敵を愛する事だといわれました。普通では出来ない事です。だからこそ、ここに真の戦い。自由の戦いが在るのではないでしょうか?