前記では、神との出会いを

お伝えしました。父なる神の愛によって救われた、私たちのアイデンティティーの再認識しなくてはいけません。また十字架の身代わり、罪のあがないから清い者と義任された上で、神。その臨在に近づき、神様と出会うことが出来ることをお伝えしました。

それらは私たちの行いとか、信仰の強さには関係なくて、大祭司であるキリストの血により契約だからです。

今回。この記事でお伝えしたいことは、私たち個人個人のことを、
よく神様に知って頂く必要性をお話ししたいと思います。

当然。神は全ての事知る全知全能であることは、言うまでもなく疑う必要も無いのです。
けれど、神は私たちには自由と人権を与えて下さいました。それを神は認めておられる以上。
私たちに認めて下さった人権から、神からの取り扱いを受けたいと願わなくてはならないのです。

このことを願う場所は恵みの御座とも言われるのです。
ローマ 8:33 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。
 8:34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

キリストは、私たちの日常生活の思い悩みを知って下さり、父なる神の右に座して、私たち個人個人のために取りなしておられます。

ローマ8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
 8:27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

ロマ 8:34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

上記の御言葉から、いつも私たちを弁護して、父なる神の右に座して取りなして弁護して下さるキリストを、(何が何でも・・とことん) 信じ無くてはなりません。

時には、父なる神は私たち以上に考えて、ご自身の栄光をために、また私たちの最高の喜びを得るためにのために、祈りの答えを遅らすこともあります。その事知っていれば忍耐し楽しみながら、感謝しつつ、その時を待つが出来ます。

このとこを知る人は神には失望はしないと思います。
少し答えが、私たちが希望した時間や日にちとは違っていても、遅れているだけなんですから・・ね。このことを深く知れば失望は、望みと希望にも変わります。

キリストは、父なる神に 『 ごらんください、ああ父よ!あの子の願いをこれ以上 遅らせないで下さい。あんなに泣いているでは無いですか!』と取りなして下さっておられるのです。

私たちの謙虚に へりくだり 忍耐を持ち続けるときに。神の栄光を表すにために、一番良いときに、私たちの祈り、願いを答えて下さるのです。 キリストも主の祈りの第一番目で教えて下さいました。「父なる神の栄光があがめられるように。」と祈りなさいと・・

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神の義と栄光が第一の祈りで無くてはなりません。そうすれば、全てが叶えられるのです。
神に与えること。Give それは栄光への賛美の祈りです。そしたらTake 私たちの願いも与えられるのです。 Give&Take なんですね。 先に感謝と栄光を キリストを通して 父なる神に捧げなくては、私たちには本当の恵みは無いのです。

マタイ 6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。


そのためにも、私たちの取りなして下さる弁護者。キリストに近づいて、私たちのことをよく知って頂くことが大切です。