本音で語り合う事が、

全てが良いとは限らない。

本心からで無く、その人が一時でも語った言葉に徐々に心が支配されやすい。 
「主よ。私の口に見張りを置き、私のくちびるの戸を守ってください。」詩編141:3にも書かれている。 
                   
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誰かを批判するとしても、それは己に向かって、先ずは語てからの方が良い。 言葉は心の表現。語った言葉に、心が誘導されやすい。悪い言葉は、悪い行動や考え方を引き起こす。
あの教会の誰々が悪い!牧師が悪い。信徒が悪いと言う前に、喩えそれが本音であっも、
その批判の言葉を自分に言い当ててみてはどうかな?

献金を強要されると感じたなら、 何故?強要されたと感じるのかを、自分に言いかけて、神に感謝する気があるのか無いのか?を考えて見てはどうでしょう?

献金他、教会の運営方法が悪いと思うならば、先ずは自分自身に問いかけてベストな方法が無いかを自分や所属教会に問いかけてみてはどうかな?

インターネット社会ですが、2チャンネル始め色々のブログから語り告げても良い解決になるだろうか?一旦。ネットに書き込むとほぼ消えないです。慎みの唇が必要です。未信者がインターネットから記事を読んだとしても、神の御名が傷付くような発言記事は避けるべきかと思います。教会の批判、牧師の批判も然りです、御名が引き下げられるからです。

私たちは献金以外でも誰かを強要していないだろうかと考えて見る。
キリストを信じている私たちは、人に言う前に、神に語り解決を求めるべきでは無いか?
人に告げてしまうから、神は解決の道しるべを示す事、それらに関する新しい解決策への知識や知恵を失う。人に左右されるからです。第一に相談すべきは神様です。

人に頼り不満や本音を告げてしまう、また解決を求めるならば、神ご自身の御手を引き下ろすことに成り兼ねません。
 
キリストを信じる者であるならば、先ずは相談して、不満を語る相手は、神でなくてはいけないと私は思う。 教会内の問題。病の問題 経済的なことあらゆる分野で、神に語り掛かりかけることが先ではないでしょうか? 「神よ。何故ですか?」と問いかけて下さい。神を第一に求めなさいとイエス様が語っています。

「主よ。私はあなたを呼び求めます。私のところに急いでください。私があなたに呼ばわるとき、私の声を聞いてください。」詩編141:1

                    
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問題提起の本音は、各教会や個人の信仰の徳を高めたり、個人個人の信仰を引き締めることになります。愚痴は、本質の解決になら無いと思います。本音と言っても、お互いの傷を舐め合うだけでは解決しません。
助け祈リ合う事から、一緒に神に打ってるようになって、解決が見えて来ると思います。教会の姿勢。教理的に合わないならば、神に訴えて解決策を求めたり、静かに去って、神に相応しい教会に導かれるように祈りました。
ただその語るときに、己の唇に慎みを持って語る方が良いです。
 
ベストカウセラーは主キリストです。牧師でも語った言葉が、その引用が正しいかは、私たち信徒自身が聖書をも1度調べる必要があります。サタンも聖書の言葉を使いますから。要注意です。キリストは、サタンが使った聖書の言葉の誘惑を、聖書で答えました。 パウロの語った言葉を、当時の信徒はもう一度聖書を調べました。

使 17:11 ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。

以前、私が所属していた教会は神の癒やし 聖霊のことを殆ど教えなかった 。メッセージとして語ったとしても、それは昔のことだと教えられた教会でした。 母の痴呆症になって、牧師任せではなく、自分から聖書や文献を調べて、現代でも神癒は存在すると確信し始めて、私自身から、神様に直截。祈りました。教会の説教も聞いたら直ぐに
聖書も文献も色々調べました。

母がその後、痴呆の記憶消失から回復しました。同じく その教会の牧師には献金についても問題があり、静かに、教会を離れて別な教会に変わりました。