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心の風景、愛の聖書、福音と癒やしと日常から。ミカエル小栗

ミカエル小栗がつづる心の風景。聖書の福音は愛と救いと癒やし。日常の出来事の心の雑記帳風景ブログです。聖書に基づくカウセリング、祝福と救いと心の癒やしを祈ります。あなたの教会のメッセージ奉仕もします。ご依頼はメールにて!

タグ:分かち合い

コイノニアは交わりと訳されることが多いが、

原点をたどれば、 キリストの血を預り 飲んで一致することです。わたしたちが裂くパンは、キリストの体を食べて一致すること。これがコイノニアの言葉の発祥です。この「あずかる」の原語は実は「κοινωνία コイノニア」です。
クリスチャン同士が仲良く交わる、会話する。合流して楽しむことはないことが原点を見るとわかります。
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日本語「コイノニア」はだいたい「交わり」と訳される。パウロの言う「交わり」を理解するには、初代教会の状況を踏まえなければ分りません。
 初代教会は圧倒的に「プトーコイ 心底貧しい人Φτωχοί άνθρωποι 」すなわち、物乞いしなければ生きていけない人達で構成されいた。そこに生活水準が上の人々が徐々に共同体に加わり、貧しい人々との間に問題が生じ、そのことについてパウロが手紙を書き送るほど、初期の教会共同体においても貧しい痛みを抱えた人々が軽んじられていたということが赤裸々に報告されている。
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「プトーコイ」をなぜ「心底貧しい」というのか。
それはギリシャ語「プトーコイ」はヘブライ語の「アナウィーム」の訳だが、これは「心底貧しい人」「神以外に頼る他にない者」という意味で使われている言葉であり、宗教的・精神的な謙遜の貧しさではなく、具体的な痛みをもった人を指す言葉であるのです。

神はあえてその「心底貧しい人達」を教会のメンバーとして選ばれた、ということを忘れたくない。というのは、この初代教会の文脈から言うと、コイノニアが意味する「交わり」というのは、いわゆる交流であるとか仲良くするということではなく、心底貧しくされた人々とキリストに有る私たちとの「痛み分け」であり、様々な痛みやレッテル貼られた人々問題を抱えた人々との「痛みや『穢れ』の共有」を意味するのですね。
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経済的な貧しさもありますが、キリストを知らない霊的貧困、霊的な貧しさを持つ人々に福音を伝える霊的な働き分かち合い、キリストの教えを伝える。あなたが聖霊に助けから聖書で学んだことを、知ったことを隣人に愛をもって分かち合うことが重要になり、それが霊的なコイノニアの始まりでした。
教会と他の場所でクリスチャンが集まり交わる、リラックスして話し合い楽しみを分かち合う交わりがコイノニアでは無いのです。
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コイノニアを通して、キリストの血の恵み=救いを知り信じた上で 神の愛と救い。その教えを分かち合い実践する助け合いを共有することがコイノニアの第一の目的です。 その結果。キリストから離れることのないようにコイノニアが形成されました。コイノニアからあなたの隣人にキリストの血を飲む救い 福音を伝え分かち合い語る 実践する場がコイノニアではないでしょうか?    
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とりなしの祈りについての学びに

神戸キリスト栄光教会{菅原牧師牧会}でおこわなれた集会に参加しました。
講師は、エスタさんでした。{ギャザリングのとりなしの祈り そのリーダーの一員です。}

若い頃に、日本での苦学をしながらの留学経験があり、日本のために祈り始めたそうです。
祈り始めた若い頃には想像できなかったのですが、ホームカミング・ギャザリングでとりなしの祈りの
リーダーになるとは想像してはいなかったそうです。  
        右側がエスタさん。          

また とりなしの祈りは 、何か特別な成果は直ぐには見えません。 教会奉仕の中での賛美リーダーや 教会奉仕のように目立ちはしません。けれど、長期間の祈りの奉仕ーとりなし祈りは教会やそこに集うクリスチャン達には不可欠です。静かにその成果が現れてきます。結果が直ぐに出るとは限りませんが、とりなしの祈りの重要性を解き明かされました。


その中で それぞれに思い浮かぶことを シェアーして分かち合いました。キリストと教会勝利宣言も信仰行動として宣言しました。
この信仰行動と宣言は、「 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。ヘブル 11:1 」 この御言葉に基づいています。

とりなしの祈りは預言的な思いが与えられることもあります。 参加していた方々の、それぞれに日本の為に祈って与えられた思いとイメージを 中には預言的なイメージも分かち合いました。 
開催したキリスト栄光教会のメンバーに与えられた預言的が多い気がして差し控えました。

私が見たイメージ、「大きな大木に黄金色の実がなる前に、足下には青色の実が落ちていて拾い上げると、その実の果肉が落ちて中から固い木の実。クルミのような堅い実でした。見ていると、両刃の剣が、その身を割りますと、中から青葉の付いた若葉が伸び始めて 先に見ていた黄金色の実を付ける大木に成長し始めました。」

そのイメージ 予言的なことが何時 実現するか楽しみです。私自身の個人的なことか キリスト栄光教会の為 日本の為なのか分かりませんが、それぞれに共通点もある気もします。

私が始めて、神戸キリスト栄光教会を訪れたのは、21年前になります。神戸、阪神淡路 震災後でした。時の流れの速さを感じます。予言セミナーがあると知って、始めて富山から参加しました。
何故?参加したかと言いますと、長田に、当時教会があったので、関心が持ちました。
それは、神戸震災の前に、震災の様子を 幻で、震災の3日前に見ていたので、非常に気になりました。その日から神戸のために祈り始めていました。

その頃は、預言のことは詳しくは知りませんでした。小さなグループに分かれて神戸と日本のために祈り合いました。これ先に地震の幻を見たときと同じ方法で祈りとりなしをしました。
リーダーは与えられたイメージを紙に書いて、渡すように指示されました。

私が紙に書いたこと。「現在の教会の場所から北側に新しい教会が一つ建てられるイメージ。
また六甲山を越えたところにも教会、明石海峡大橋を越えたところにも教会がある。」と書きました。
リーダーには読み上げシェアーされませんでした! やはり気のせいか!?と思ってその場は終わりました。

けれど その後、私がレストラン経営を辞めて神学校に行き 神戸に来る事なんて想像してもいませんでした。今に至って、当時の教会から北側に 板宿に教会が建てられ 六甲山を越えた 三田市と三木市に。最近 知った神戸明石海峡大橋を越えたところにある大久保町にも キリスト栄光教会の枝教会が有る事を知りました。

とりなしの祈りは直ぐには結果も出ませんし、目の見張る結果も見えません。また人から賞賛を受ける賜物でもありません。 けれど根気よく祈り続けることの重要性を再確認しています。
お互いを尊敬し合い 愛し合わない、そして とりなしの祈り 祭司としての祈りの無い教会は
廃れます。
       
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長い間。 てんかんの病を持っているある方を祈ってきましたが、
今日、メールと頂きました。
薬をあまり飲まなくても良くなったそうです。(向精神薬他の減薬の勧めも書いています。)

 時々 書いていますが、統合失調症から回復した人のために9年祈りました。 離婚しそうになった方、 教会につまづいて信仰を見失った方、ウツの方 他 色々のケースを抱えて 多数の方の為のとりなし祈りをしています。

多くはインターネットを通じて私の記事を見た方からの依頼です。私が牧会して教会成長する為には関われない遠方からの依頼者です。けれど 依頼者のカウンセリングとりなしの祈りは、神の国を立ち上げるには、必要ですね。

癒やしの祈りやその方に祈ったら直ぐに環境が変わらないこともあります。しかし、諦めず根気よく祈っています。深夜でもチャットメールや電話で話して祈りあっています。
一旦。関わると、神から示された事をして理解し、祈り続けています。

元気で問題が無いと音信が途絶えます。<私からは、積極的に連絡を入れていません。けれど それはその人が問題なく 満たされている時なので嬉しいです。 >

 {信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。ヘブル 11:1 }
とりなしの祈りの原動力になる言葉です。また実現していない、個人的なビジョンを実現するための希望、信仰 神への献身の言葉です。

皆様に、神からの祝福が注がれますように。

 
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