聖霊は人格者 性質をお持ちです。

聖書のある箇所には、神は力ある性質を持つ方との表現も有ります。δύναμη του Θεού {神の力}福音を語る、伝える為にと、力だけを求めても、癒しだけを考え求めても、あまり意味がなくて、神 そのもの臨在と交わり 礼拝を求めなくては、本来の礼拝 賛美を差し置いては 力は消え去ります。

 臨在を表されるとき 神のご性質である神秘的 力も癒しも現れます。神の人格、性質はリからの表れがあります。ですから聖霊は力だけでは無いのです。三位一体の神だからです。

しかし 時々 「聖霊の力を求めなさい!」と ある方から聞いて 違和感を持ちました。
なんだか 私は力だけを求めている気がしたのですね。そんな私ですが、前記のブログでは言葉足らず 誤解 違和感を与えてしまいました。失礼しました! 加筆しお詫びします。

 癒やしだけをを求めても、力だけを求めても、置き去りにして神様ご自身を求めない事と似ているのは?聖霊の本質は キリストと一体ですから、父なる神は 神子を礼拝して求めて 救われていないならば聖霊は現れないと信じます。目先の現象を感情で曲げ無い事が大切です。ユダヤ人は砂漠ては奇跡の現象、火の柱を見たが神ご自身を忘れて事がありました。
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信じ救われた者には、聖霊が私たち一人 一人をを宮として聖別し 私たちの霊に内住して下さるのです。この点を意識して忘れないことが重要です。 私たちはキリストの流された血潮によって 救われ聖別された、聖霊の内住を受けたクリスチャンなのです。

キリスト復活 昇天後 弟子たちは、 神を礼拝し賛美する為に、エルサレルの一郭にある二階の部屋で集まりました!その日は五旬節でした!
過越の​祭​の​50​日​後​に​五旬節すなわち​初穂​の​祭​が​行われた(レビ​23:16)。五旬節は​収穫​を​祝う​ため​の​もの​で​あり,『旧約​聖書』で​は​刈入れ​の​祭​あるいは​七​週​の​祭​と​も​呼ばれた。新しい契約の地では初の実りを祝う祭りとも言います。その記念日、祝いをする日に聖霊は見える形で現れたことも意義深いですね。

内住された聖霊は、目に見える形、火のように
五旬節ペンテコステの日に天から下ってきました。その場にいた人々に火がに油を注ぐかのように溢れ流れた油のようです。昇天なさったキリストを慕い求めて礼拝しました。力や癒やしだけを求めていたのではありません!
三位一体を礼拝したい求めた結果。聖霊の表れが火のように下りました。
聖霊だけを 力だけを求めてはいませんでした!
聖霊降臨

キリストが十字架にかかった日は過越の祭リの日でした。
そして 二階の部屋に集まった日は 又 全ての縄目 負い目が50年に一度リセットされる神の契約。ヨベルの年とも重なっていたのではないだろうか!?

神はそのご人格から新しいこと始める計画をなさいました。ヨベルの年は50年、全ての負債 罪が解消される年なのです。キリストの十字架を信じ、復活を信じ、救われなくては聖霊は内住も、目に見える形では現れないのです。 ヨベル 十字架は罪の赦しの象徴です。  キリストを信じ許された者には、聖霊内住があり その後 信仰て礼拝  救われた溢れた喜びから異言も有ります。

聖霊の内住「あなたがたのからだは、あなた方のうちに住まわれる、神から受けた聖霊の宮であることを知らないのですか。」 (1コリント6:19)御霊が私たちから取り去られることはありません。聖霊は、イエスが再臨されるまで、私たちの慰め主、助け主、パラクリートです。(ヨハネ14:16)
その結果、私たちにも聖霊の助けと導きがあります。
主イエス様もイエスが地上で宣教しておられたとき、イエスは聖霊に満たされておられました。(ルカ4:1)そして聖霊に導かれ(ルカ4:14)また聖霊の力によって多くの奇跡をおこなわれました。(マタイ12:28)イエスが昇天された後、聖霊は使徒たちが奇跡を行うために力を与えられました。(2コリント2:12)

過越の祭リ ヨベルの年に関しては続編に続く!

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