彼岸花今日は罪と罰。この言葉から、トルストイを思い浮かべられたでしょうか? 私は昨日に続いてこのことを思い浮かべます。このブログ原稿を考えていた昨日。チラッとだけで、ニュースでは、詳しいことは聞けなかったことがあります。それは、殺人を犯していながら、自宅にその遺体を埋めて?時効になることを15年、20年とひたすらジーット待っていた、男ことを話していました。TVアナウンサーがコメントを求めていました。『大変、悪いことをした!』でもその声は、えらく落ち着いて、「してやったり!!とも聞き取れました。そんな風に感じたのは、私だけかな? 

日本の法律では、殺人罪は15年で時効です。民事でも20年だそうです。その時効があだとなって、彼を裁けないのです。また遺族コメントからも痛い想い、悔しいが伝わってきました。逃げ得なんて・・ 罪は罪として時効関係なく、国が裁いて欲しいなと思いましたのです。世界的に死刑は無くなる傾向です。俗に言う生き恥さらして、生涯償うことに変えられてきています。死刑にすれば、苦痛も恥じも消えて終わりだからです。たとえ裁かれたとしても、償いの無い罪はそのまま残ると思いませんか。ですから罪の時効は裁かれるまで残されても良いのではと、今日思いました。 

わたしは過去に、3人の殺人者を面会したことがあります。刑期を終えて、一般的に更生を彼らはしております。彼らの責任の受け取り方、命の考えは3人3様です。追い込まれて、仕方なく殺人を・・その方は何年たっても後悔と苦しんでいます。カウセリングも一様ではないです。一人は、アッケラカンと「刑期を済ませたから」としています。彼は刑期を済ませたので、国の罰は受けたからです。 でも何故?命の尊さは・・とも思います。体の罰は確かに受けたけれど、心の罪の呵責は受けたように思えませんでした。私が問いかけても、終わったというのです。 

コスモス紫
昨日。時効になってから、ようやく自首した男の心の中は、どのようなものでしょう?せっかくなら、時効のまま、未解決事件でいた方が、残された遺族の気持ちを思いやるなら、未解決のまま方が未だマシかなと感じた次第です。神の目から見れば、最初の殺人者である、カインには額に印、罰のようなものでしょうか? そのために人から嫌われ恐れられつつ、一生きたのです。しかし、神は、罰を与えることより、罪の悔い改めを願っておられます。聖書に書かれている、短い言葉であり、重要なことは『罪の報酬は死です。』彼の言い訳からは、それを感じませんでした。感情だけで人を裁くことは危険です。しかし、その死の変わりに、罰を与えることが発生しました。ただ、刑罰だけでも推し量れない罪があります。

人に対して犯した罪は、その人に対して償う必要は認めます。でも時効という壁で、償うことを要求できないことの、不自然だと今日感じた次第です。外国のように、時効をなくすことの必要な事件が、交通事故殺人が増えてきているのも悲しいです。交通事故ので、3億円という償い金支払いの命令の判決が、今日また別件で出ておりました。国に対して、人に足しては償いが必要とは思います。キリストも『カイザルの物はカイザルに。』と国と天国を分けられました。交通事故は、今日は被害者でも、運転する限り、明日は加害しになる可能性が秘めています。肝に銘じて、安全運転しようとも、思いました。

さて天に、神に対して犯した罪。キリストは私たちの犯した罪の償いに対して、死の代価を払ってくださいました。キリストの十字架の死です。私たちが命の代価を支払わなくても良いようにしてくださいました。 そのキリストに深い感謝をささげます。