高槻城から比較的近い

 京都府美山の里に讃美歌と聖書朗読背景に使いたいと撮影に行きました。
帰り道には丹波篠山を通ります。そこに私の秘密の場所 祈りを捧げるとき場所、滝があります。
滝に打たれ主イエス様に、「私は本気、真剣だよ! お答えや 心の中に導きを 聖霊によって示して下さい!」と祈る大切で特別な場所です。断食では、長い期間や中期間が必要ですが、急ぐときは滝に打たれに行きます。

 旧約の予言者達は、着ていた衣を引き裂いたり、素裸になったり 大路地で叫んだり 妊婦が子どもを生み出す体勢を取ったり体勢・・。様々な祈りの形を取って祈り預言しています。
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白血病の方の癒やしのために、急いで返事、癒やして頂きたい。だけど東京の病院に居られるので確実にお答えを頂きたいと、山に入り滝を見つけて祈りました。それが初めてのことでした。

今回は鳥取に居られる方の為でした。癒やしと救いを祈る為でした。先週はその方のために自宅で祈っていても、何故か・落ち着かず、色々の思いを超えて祈りました。
脳梗塞の為に、会話する事が出来ない方でした。祈って 祈ってから介護用のシャツを送って着て頂いた後 目が動く、何かを訴えることができまで回復しました。

私以上に、依頼者の家族は真剣です。その家族の期待にも、神がお答え下さるようにと祈ってきました。
祈っているとき、静かに、『あなたがしたことはしたし、家族の祈りも届いている』と胸に響いてきた気がします。
どの様な結果であっても、神様は私たちの見方です!

祈っているとき母のことや、滝元明先生{亡くなられました。}から教えられた、
「主を信じなさい。あなたのあなたの家族も救われます。」使途16:31を再び思い超して感謝しました。
神様が、瀧元先生と私を引き合わせられたことを感謝しています。

萎えかけていた、私の信仰に再び、キリストをより現実的になるように、受け止めるようにと信仰の火をともしたお言葉です。信仰が与えられ、祈り事へのチャレンジが与えられ、母が癒やされました。アルツハイマー病記憶喪失から奇跡的に回復しました。
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時々母を連れて、愛知県新城教会にいきました。高齢の母を瀧元先生は、母に対してもお気を使って下さいました。母の洗礼を受けさせて頂きました。
亡くなったとき、兄は仏式の葬儀を、『これは俺たちの葬儀だから』、お前はお前でやれば良い! 』と・・葬儀が終わってから、遺骨を抱えて、愛知県新城教会に行き、滝元明牧師先生に祈って頂きました。今でも、その優しいお言葉と御心使いには感謝しております。
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     「母の洗礼式、高齢のため、牧師からの勧めでて、滴洗礼になりました。」

春の讃美歌を作りそのBGMにリバイバルミッションの曲を挿入歌として使用させて頂きました。その一曲の歌詞を下記に書きました。
         
母の癒やしと救いが無ければ、神学校にも行かなかった。クリスチャンを放棄していたかも知れない!?・・。・現在は癒やしのミニストリーもしていなかったことは事実です。
{母や癒やされたことを証明するために、病院からの資料を取るように言われたことがあります。しかし30年前の診察記録はありません。} 

私の証しは、神で在るキリストからの恵みです。神の本質、ご人格を知れば、信じてもらえると思います。
神の恵みの素晴らしさ、それは各自の信仰による恵みですから、個人個人に違いがあります。神様の導きも、信仰経験も 皆 同じではありませんから・・。

ただ今年になって、より明確に 癒やしの祈りには確実にお答え下さいと祈るようになりました。マルコ
16:15〜18 
 それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。 信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」

わざわざ毒を飲んだり、蛇をつかむことはしませんが、依頼者の癒やしが完全であるようにと、以前に増して祈り求めるようになりました。
私自身が祈った人が全部癒やされていたい現実があります。ですから神に祈り尋ね求めているところです。

ただ慰めとして弟子、最初から祈れば必ず癒やされたのではありませんね。訓令や練達は必要です。出来なかったからと諦めずに 神の前に謙る事ですね。

私たちが、この謙ることが癒やしの祈りに応えて頂くよりは、もっと難しく困難です。
直ぐに自我 これくらいは、良いだろうと 考え方や行動 思いに 信仰的にも直ぐに緩みが出てしまうからです。
気を引き締めて、魂を清めていかないと、神様の御業の代理人 {神の恵みを通す管}には中々なりきれません。と・・改めて思い諭されている次第です。マルコの16章は神の代理 イエス様の代理人になるようにとの命令ですから・・。
聖霊を受けて、異言を語ったとしても、福音を語らなければ・・聖霊の力を受けた意味が無いのでは無いだろうか?

わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。ルカ9:23
自我を捨てて神様に付いて行きたいですね。。

何か上手くいかないことは、
成功するようにと。私たちが何か失敗したとしても、神は見放さずに、そして喜びに溢れるようにと、神様は常に導かれ、新しいチャンスを開いて与えて下さるのです。
イザヤ63:9「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」
何か成功しなかった!上手くいかなかったとき、神様も、私お立ちに寄り添って下さるのですから、明日に希望を持って生きていける。失敗も変える事が出来ます。

諦めずに祈ります。癒やしを願い続けます。しかしやはり、最後には誰でも死ぬのですから、魂の救いを祈り続ける事が最も大切だと思います。
ルカによる福音書10章17〜20
イエスさまはおっしゃいました。「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」。 

神の愛と救いに感謝、あなたとの出会いに、神の導きを思い、あなたに感謝申しあげます。
あなたの祝福を祈ります。

春の讃美 復活を思いながら
             

♬ あなたの大庭で。冬の美山 かや葺きの里 京都府を観てから思いだした讃美歌。
詩篇65:4
主イエスに愛されて
生きて行ける喜び
主を愛し 主と語り合う
その楽しき 交わりよ

主イエスに愛されて
生きて行ける安らぎよ
主を愛し 主と語り合う
その楽しき 祈りよ

主よ あなたの御側に
引き寄せられた 喜び
主よ あなたの大庭に
住まう その安らぎよ