私達の人生を道に

喩えることができます。
穏やかな海に、嵐の海に、進めども先が見えない大海原の海にも喩えることも有ります。

人生は谷あり山ありの道にも例えます。私はこの例えからイメージできるところは、詩編23です。
ダビデも多くの苦難と試練。人生の行程を歩みました。

私達は家族 友人に守られ支えられながら生きています。けれど、大きな苦しみ、悲しみに。何か大きな問題は孤独の中で現実を直視し決意し、決断しなくては成りません。

       

決断をする際には、誰かのアドバイスを求めませんか?けれど、ここにも問題が潜んでいます。
アドバイス 相談する人によって、私達の決断、行動や考え方が左右されることがあります。

愛する家族を失い、重病になり苦しみ。その苦しんでいる様子を見た妻からも罵られたりしたヨブです。そこに3人の賢者が現れます。
ヨブ記には3人の賢者が、ヨブに対してアドバイス・意見を述べています。
3人の人格・信仰から、3人の考え方、信仰 その人格と申請から、それぞれに特徴ある意見を語りました。そしてヨブにアドバイスし意見して指導、示唆もしています。

けれど。ヨブが抱えた問題の本質と苦しみからは救っていません。
最後には、ヨブは自分自身の信仰から決断を下しました。
アドバイスした人は、本当の意味では責任を取りません。

この世の物質的な助けとは違う、なにか? 神との結びつける何かを語り、信仰を深めるより、神から引き離そうとした面もあります。「あなたがそこまでして神を信じるのに、何か良いことがあったのか!?君が間違ったら、この試練が来たのだろ? そんなに信じても神は良いことをしないだろ!?」
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正しいとされる神の言葉。聖書の言葉に従っても、実際問題・現実問題・・中々解決されないよう現状が変わらないように思えることもあります 。

ヨブ9:12 ああ、神が奪い取ろうとするとき、だれがそれを引き止めることができようか。だれが神に向かって、「何をされるのか」と言いえよう。
ヨブの告白は、絶対的な神にたいする服従する決意表明ですね。
現実が迫るときに‥私達はこのように思います
ヨブ23:2〜3{私の手は自分の嘆きのために重い。ああ、できれば、どこで神に会えるかを知り、その御座にまで行きたい。」
けれど神は即答を控えます。

それでも、ヨブの3人の友人はこの決意後にも 色々語っています。
ヨブ 28:28 こうして、神は人に仰せられた。「見よ。主を恐れること、これが知恵である。悪から離れることは悟りである。」と告白後にも、ヨブの心も揺れます。この揺れるところ‥私達の心です。
次々を色々の問題 現実と言うライオンが襲いかかるからです。 

神は嵐の中から、ヨブに答えます。ヨブ40:1 そう言えば・・エリヤにも嵐の中から答えましたね。第一列王 19:12〜13 

さて、主は嵐の中から答えて<主の声は嵐の稲妻ようかも!! >
神は答えて、この世とは違う創造主の権威を示す。その服従。けれども、この世のルールの中にもある、神の存在に目をとめるように示唆なさいました。これはどのようなことなのか? 神はこの世の下で、様々な状況下でも、神を見いだす事。従うでは無いでしょうか?この世のしきたり、ルールの中、争いにも巻き込まれたとしても・・。

 最終的には個人が、その決断の負い目を負います。アドバイスした人は責任を負いませんが、下記のように、神からのしかりを受けます。
 
ヨブ42:7 さて、【主】がこれらのことばをヨブに語られて後、【主】はテマン人エリファズに仰せられた。「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。それは、あなたがたがわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったからだ。

良く聞く話で、あの人が言ったから‥私はこうなった!あんこと言われて、私がこうなった!
責任転換は、神は許されないですね。 この世で生きている限り、様々な現実問題の中には、己の要因 原因も含まれます。冷静に見て、神に相談 祈り願うことが大切です。悔い改めることは、悔い改めなくては成りません。

色々な意見を述べて 、ヨブを傷付けた3人を、神は祝福しなさいと命じました。人は自分を傷付けた人を許すことは困難です。しかし、神はその命令に従った時に、 ヨブ自身を祝福して、全てを回復なさいました。 あなたを傷付けた人は居ませんか? 恨んでいる人は居ませんか?
赦しの祈りを 祝福する祈りをしませんか? あなたが祝福されるためにも。

ヨブ 42:10 ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブの繁栄を元どおりにされた。主はヨブの所有物もすべて二倍に増された。
ここに、私達に負い目、苦しみを与えた人にも赦しの告白と赦しの祈りが必要で有る事が、神が示されています。万人祭司でもあります。

最初、ヨブは神の守りの中でも、マイナス要因の言葉を告白して、心配していましたので、サタンは其処を突きました。 

ヨブ1:5 こうして祝宴の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せ、聖別することにしていた。彼は翌朝早く、彼らひとりひとりのために、それぞれの全焼のいけにえをささげた。ヨブは、「私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。

先々のことを計画することは、良いとしても、心配し過ぎは良くないですね。
『明日のことを思い患うな』とも 聖書マタイ6:33〜34 に書いてあります。患うほどに心配することは良くないと思えます。神様が語られた、『私が支えて守る。』イザヤ 41:10 でいわれた言葉に相反しています。
 
イザヤ 41:10 恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。

キリストを信じても、ざまざまが事が有ります。病になります。「神よ 何故ですか?」と恨むのでは無く、神から目を離さない忍耐を、ヨブから見習う信仰を求められてる気がします。
これらの記事 ブログを読んで下さった方に 神からの祝福が豊かに注がれますように。
      私は祈ります。
 
詩 60:5 あなたの愛する者が助け出されるために、あなたの右の手で救ってください。そして私に答えてください。