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心の風景、愛の聖書、福音と癒やしと日常から。ミカエル小栗

ミカエル小栗がつづる心の風景。聖書の福音は愛と救いと癒やし。日常の出来事の心の雑記帳風景ブログです。聖書に基づくカウセリング、祝福と救いと心の癒やしを祈ります。あなたの教会のメッセージ奉仕もします。ご依頼はメールにて!

タグ:#自分の十字架

信仰を持っても

いわれない苦しみ 悲しみ 辛い出来事 愛する人の突然の死 事故死ほか言葉では言い表せない出来事、まだあるね、試練と解っも何故に?あと病などに 理解不能に成ります。
しかし 立ち止まり 再び キリストのみ翼の影 十字架の元に行くなら 私たちは救われ 癒やされます。
マタイ10:38 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。 中学生の頃に、始めて聖書を読んで、この言葉の意味が深くは分かりませんでした。でも『キリストに付いていこう!』と決心して洗礼を受けました。

自分の十字架とは何だろう?人生における様々な問題を、キリストの元に携えていく、その問題をキリストに下駄を預けること、一緒にキリストが背負って歩いて下さる事では無いでしょうか?
自分か抱え込んだ様々な問題を、キリスト完全に委ねて預けると、自分が背負う分が半減します。これは理論や理屈では無く本当です。神が解決するまで忍耐が伴うことも事実です。
直ぐに回答、解決されると焦ると間違います。あのアブラハムが神の心を間違えてイサクでは無く、
イシュマエルを産む結果となりました。神が解決、神の心に沿った約束を果たすまで25年間、アブラハムは自分の十字架を背負いました。
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人の力では無い解決を期待すること。 神に下駄を預けて忍耐し、神の介入を待つことが一つの自分の十字架では無いでしょうか?
キリストは一旦死んで、復活するまでの三日間の期間を父なる神に委ねられました。
<私たちも霊的に死んで復活 (問題解決する)期間がありますね。>

 差し迫った個人的な問題。私の身体に癌がみっかったこと! 癒やされる 癒やされないも神に・・自分の十字架として背負い神に委ねる、命をお任せすることでしょう。

 年金の入ったので全額おろして、財布に、けれど、作務衣のポケットに入れたは良かったが、全額落として、支払いに困っていることなども、自分自身の失敗さえも、神に委ねて知恵を頂く。 自分の十字架としては、その意味からは広いですが。
問題解決する全権を神に委ねることでは無いだろうか?、ある方は私の呟くツイートを見て下さって献金をして下さると申し出て下さいました。けれど別な方法、。届け出を期待しながら 感謝しながら一旦 辞退しました。神の介入 助けを期待しています。様々な、自分の十字架を背負う方法が有りますが、最終的には神が必ず解決します。
続く。
          

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始めに 皆様に

素晴らしい一日でありますように祝福を祈ります。


様々な問題が、私たちが信仰すればしただけあります。謂われの無い誤解。苦しみ、悲しみ等など、加えて病にも襲われます。

ただ天に居る私の父さん、父なる神
キリストのお名前で聖霊の助けを祈るしか私たちには残されないことを最近、確認をさせて頂きました。
今までも祈りながら様々な問題を乗り越え、実現した時を想像して楽しみにして祈ってきました。


何もキリストの事を一切知らない中学生の時に 扁桃腺入院中、隣りのベットの人が聴いていたラジオから流れた宣教師の祈りの言葉を偶然にも聞いて 、訳も解らずアーメンと一言、言いましたら 何故か?頭から足の指先迄 感動に震えて涙が溢れました。『手術後の高熱が出ないね !』と 看護師に言われて キリストに急に会いたくなり 退院後 教会を探しました。若く幼く未だ純真?いや疑うことが少なくて単純だったから幸いでした。

初めて行った教会は若い人が多い教会でしたから、まるでキリストにつながる家族の様になりました。学校帰宅する前に 教会に自然と集り 勉強を教えてもらい、自然と賛美の練習 近所に 伝道チラシを配っていました。

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二十歳前から コックの仕事しながら 暇を見つけて 日曜日以外に 教会に行きました。しかし親しんだ人が成長 仕事を始め、宣教師も代わると 教会の雰囲気も変わりました。

私も子供から大人になり始め 宣教師 牧師の行動発言との違い、聖書の教えからキャップを感じました。私自身も聖書の教えからしたい事があっても出来ない キャップも出来ました。そんなときには、始めて聖書を読んだときのマタイ福音書の言葉が励ましでした。


マタイ6:33 「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」

解らないことは探し求めよう、一番知りたいのは、扁桃腺の手術の時に感じた、たとえようも無い不思議な あの感動の理由と、神様に出会いたい思いでした
暫くして聖書の中に、

マタイ 16:24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。


当時、幼いなりに感じていた親子関係のこじれや他のことなどを、十字架に付ける、預けられるように祈りましたら、なんとなく心がスッキリ軽くなった気持ちなりました。
十字架に自分自身を付ける決心をすると、キリストは持って行ってくれるのだと、幼いなりに信じました。続く。

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