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心の風景、愛の聖書、福音と癒やしと日常から。ミカエル小栗

ミカエル小栗がつづる心の風景。聖書の福音は愛と救いと癒やし。日常の出来事の心の雑記帳風景ブログです。聖書に基づくカウセリング、祝福と救いと心の癒やしを祈ります。あなたの教会のメッセージ奉仕もします。ご依頼はメールにて!

タグ:#聖書

全ての信仰する者には、

癒やしは永遠のテーマ!
誰でも、なにがしらの信仰を持ちます。神は居ないという信じる人も、それも信仰かもしれない ?

私はイエス・キリスト信じています。 第一に十字架の救い。永遠の裁き=地獄からの救いです。
神は愛から地獄は無いという方もいます。救いの本質を聖書から読み解けば、キリストの救いは、私たちを第一に何から救うために十字架に掛かられたのかが、分かるのですけれど・・?

神は私たちが平安に暮らす事を願っておられます。

ヨハネ14:27 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。
 

この平安を私たちから奪い、混乱させて、神の愛から引き離し。神は居ないと言わせようとする霊的な勢力の存在が在ります。サタン悪霊たちです。

エペソ6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
 
この勢力は、私たちを混乱させて、 迷わせ、憎しみをもたらし、互い闘わせようとします。戦争やテロも利権=欲望、憎しみと誤解から生まれています。
一番、身近な混乱は病です。祈っても病気は治らないと宣言させて、神の子キリストへの信仰を失わせようとします。

癒やしを祈る人に向かっては、「あなたは異端です。!」と言えば、中には祈ることを止めて自粛する人もいます。しかし異端だと決める人も、癒やしを祈る方も、聖書に帰って常に吟味しなくては成らないのです。

私の祈り方は主に、聖書に書かれてある言葉を。その言葉通りに、私なりに応用して、私自身の祈りに変えています。

私の母が認知症で記憶をなくしました。その時 どのように祈れば良いのか?分からずに4年近くが過ぎ、ふと聖書の言葉を用いて祈り、神の権威に信頼を寄せてイエス様にすがりました。

『イエス様、父なる神よ。聖書には病の霊とかが書かれています。私はこの霊的な実態を事を一切知りません。
 けれどあなたは、全知全能の神ですから、もし母に関わっている霊的な存在。それは母の救いを妨害し手居るなら、どうかあなたの権威で取り除き追い出して下さい。母が、母の口でキリストは主で在ると告白できるようにして下さい。 キリスト様のお名前でお願いします。』 と祈りました。

悪霊と向き合わず、悪霊に出て行けとも言いませんでした! ひたすら、神の権威に信頼し、すがって、全能の神、キリスト様にお願いしました。だって! 悪霊の正体 病の霊の正体詳しいことは、全能の神が全てご存じだから、キリスト様に全部 お任せしました。

いじめられたときに、父親の処に駆け込んで、父親に助けを求める感じです。
犯罪に遭遇したら、警察に駆け込んで、警察にある取り締まる権利、権威があります。 
その警察に助けを求めた感じに似ています。
 
 その3日後に、母の記憶が戻り 癒やされました。神が癒やしたのだと確信するまでしばらく掛かりました。
医師さえも匙を投げていたことが分かったからです。 『お母さんが治ったのは奇跡だよ』言ったからです。

それから、下記の言葉を読んでから 私の癒やしのミニストリーが徐々に始まりました。
ただでうけた母の癒やしの経験から、癒やしを聖書の言葉を用いて祈るようになりました。 目の癒やし耳、癌 色々経験させて頂きました。

マタイ 10:8 病人をいやし、(死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、)悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。

私の祈りとなった聖書の言葉があります。
使 4:30 御手を伸ばしていやしを行わせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行わせてください。」
神様の癒やしの業を・・、キリストが行うことを見たいと願うようになりました。そして、主の御名を崇めたいと強く思うようになりました。

 キリスト様は、ご自身で、私は神。癒やす神だと一言も言わずに、私だけが、信仰によって治ると言えば、。それは異端になります。

しかし神は・・キリストは 癒やす神だと宣言しておられ、その言葉を信じて多くの人が癒やされ奇跡を経験しています。 もちろん、神は知識や科学さえも人間に与えましたから 医学も 活用すべき処は活用しなくてはいけないと思います。だから、私は祈りだけで治すとは決して言いません。
 
医学だけでは支えきれない 心 精神を包み込む キリストの愛と癒やしに期待し信頼を重ね 希望を見いだしている一人です 。

癒やされたいと願うならば、 神を信じ、信頼して、人を憎まず、自分自身を許し キリストの救い 十字架の意味を深く知らなくては 神の癒やしを受けることから遠ざかる気がします。

キリストに栄光が在りますように。

 
追記

癒やしは 聖書に書いて有ることです。
また、私は特別変わった祈り方をしません。 聖書に書いて在る祈り方をします。
すると・・癒やされます。

急に治るとき 徐々に治るとき その癒やしの工程の間。神さまとの交わりが大切かと・・

また基本では 十字架の救いを意味 意義を本当に知らないと癒やしを受け硬い。

悲しいけれども、癒やされたと言っても また元に戻る人さえいます。 

理由としては癒やされた喜びを、周囲の人々に伝えず、神に栄光を期さなかったのか?
十字架の意味を深く理解していなかったのか? 救い!その十字架の意味を知ってほしいです。

これの大切なポイントかもしれない。大病、難病には励ましが必要です。その時、気分が良くなって癒やされたと感じても、病の霊たちがまた騒ぎ、痛みや困難さを感じさせてきます。試練をまた次の手を運びます。

周りの人々が励まして信仰を燃やし続ける 希望を 信頼を積み上げる必要も感じます。
牧師先生、周囲の兄弟姉妹の助け、励まし、祈り指導が必要です。

あの時、アルツハイマーの母を医師も匙投げて、牧師も一度は祈ったけれども、継続して祈ってくれませんでした。母は、私がキリスト様を信じることには、理解していましたが、母の口からはキリスト様を信じるとは言わず、「キリストは主です。」とは告白していませんでした。
 
母の口で、告白出来るように祈り求めました。
 
具体的な祈り方があるか?色々のセミナ屋本を買いあさり読みふけりました。
三年半探して続けて、ブログの中に書いた、キリスト様の権威と母に関わる病に霊的存在ことを考えて助けを求めました。三日後に 全ての記憶が回復しました。

母が癒されなかった、今日に私は存在していませんでした。

キリスト様の権威、栄光が在りますように!ハレルヤ!!
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父なる神 神子キリスト、そして聖霊様の御名を讃美します。

信じること、祈ること、行動すること、讃美することは、神は神を喜ばせて、恵みを私たちに与えます。その一つがキリスト様からの癒やしですね!
神様のご性質、神格の一部に癒しが在ります。

ルカ
7:7 ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。
 7:8 と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。」
ルカ 7:10 使いに来た人たちが家に帰ってみると、しもべはよくなっていた。

マタイ 8:13 それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。
 
BIBLE&(29)


 私が神戸に居ての電話のカウンセリング。
九州在住するカウンセリーに、話をしていると、神は始めに、その方の心を癒されました。
その方は、乳がんで、自分の乳房を失う事への不安でいっぱいでした。
手術することを勧め、自分の皮膚移植法や新しい人工皮膚で乳房を作ることが出来ることを伝え、キリストが必ず寄り添って下さるからと祈りました。 祈りのハンカチを握って手術を受けられました。

 手術成功の知らせを受ける半年間、祈りました。
神様は真実なお方です。そのご性質から、信じる者に恵みを与えます。
互いに離れて居ても、心を合わせるなら、聖霊様が助けて、聴いて下さいました。

マタイの18の20
ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」
離れていても、特別な距離はないと 思います。確かに、一緒に、同じ場所で祈り会うことの微妙な温度差を感じてはいますが・・<あくまでも個人的な感情、認識の違いです。> 神様には不可能はありません。

この不可能は無い神のご性質、ご神格を、私は強く信じています。
とは云え、一部の人が言われる、祈りだけで癒やす、医師は入らないとは決して云いません。
彼らの知識を知った上で、適切に患部の癒やし、キリストの十字架後の復活後からが、患部に与えられるように祈ります。
むやみやたら、油を振りかけません! 行き過ぎた、間違い。嫌な事件がありましたね。

カウセリー 祈られる方の意識、信仰を尊重なさる神様に、私も従います。
むやみやたらに、桉手をして押し倒すことはしません! 私の信仰ですが、聖霊様の助けで、私の息を聖別して下さるように祈った後に、望む方には息を吹きかけます。その時、聖霊様が満たされて倒れる人も中にはおられます。

ヨハネ20:22 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」

 倒れる事が目的では無いのです。聖霊に満たされることが重要です。
神からの賜物は全ての人に同一では無いと思います。 中には倒れなくても、見張り役として素晴らしい聖霊の力だと思う働きをなさる方がおられます。

異言もそうです。異言が全てでは無く、如何に神の御心を知って祈るかが重要です。
異言は、祈る本人は分からないことが多いです、その方の霊が祈るのです。
つまり内住の聖霊様が、父なる神に、その方の霊の状態を伝えて祈るのですから、これも賜物です。
一部の人には別な賜物、異言の解き明かし力を与えます。 
異言がでないと悩むことでは無く、心解放して、聖霊様を歓迎して、待ち望めば異言は与えられます。 異言のいの字も教えていなかった、90歳の母親が、賛美の途中に、異言で歌い始めました。やはり、賛美することが、全ての信仰の要だと思いました。
その時、母が涙を流して賛美し感謝をしていました。本人、母が異言だと知らすに賛美して歌っていたのを見ながら・・私は感じ、思いました。 

賜物という意味がカリスマです。過去に間違ったことを聞いてしまったり、行き過ぎから嫌な思いをした方々が確かにおられます。冷静になれば、カリスマ=賜物は、神からの贈り物です。
カリスマを全否することはなさらないで下さい。それは、神様の気質=神格から現れる事ですから、これを全否定すれば、知らずとしても、神様の神格を否定するのと同じになりませんか?

カリスマ
ローマ1:11、5:15-16、6:23、11:29、12:6、第一コリント1:7、7:7、12:4,12:9,12:28,12:30,12:31、第二コリント1:11、第一テモテ4:14、第二テモテ1:6、第一ペテロ4:7にギリシャ語のこの語が出て来る。ローマ5:15は救いの恵みの賜物、6:23は神の賜物「キリスト・イエスにある永遠のいのち」、11:29は「神の賜物と召し」です。

 
私たちへの最大のカリスマはキリスト様です。

大いなる父なる神様を 御子キリスト その流された血潮と救い。
私たちの助け主 聖霊様を讃美します。

追記、もう一人、乳がんの方の為に祈っています。彼女は現在。手術することを拒否、祈りだけでと言っていますが、間違っていないかと・・御心なら癒やされずに死んでも良いとさえ云っています。・・しかし、生きる事自体が神の恵みです。 それを放棄しないで、手術できるチャンスも神の恵みだと私は伝え云っています。 その方のためにとりなして下さい。名前は仮に・・O.Mさんとしましょう。
 どうぞ、とりなして お祈り下さい。
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私たちには、必ずと言って良いほど・・

心の故郷、風景が残っています。私は現在。神戸に住んでいます。神戸と言えば六甲山です。
けれど、私の心の風景は、富山にある立山連峰です。現在、何度目かの引っ越しをして、神戸市内の新居に落ち着き始めて、やはり思い出す立山連峰の雄志です。

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朝日、夕陽、四季に応じて変化し輝きを増す立山です。

中学生の頃、クリスチャンになり、神を求める気持ちを起こさせた聖書箇所があります。
それが下記の詩編 ダビデの歌です。

詩編  都上りの歌
 121:1 私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。
 121:2 私の助けは、天地を造られた主から来る。
 121:3 主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。
 121:4 見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。
 121:5 主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。
 121:6 昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。
 121:7 主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。
 121:8 主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。

仕事、結婚、妻の死、辛いことが色々あり、教会から・・信仰からも離れたときがあります。
けれど本当に困って立ち止まったときに、 私の助けは何処にあるのか{1節}?と思ったときに、この詩編の言葉によって、そうだ!神の処に帰ろうと決心が出来ました。

真の助け、救いは神、キリスト様しかないことを悟らせる言葉です。
近日の出来事でも、引っ越しの費用とそれに付随している諸問題も一度に!ではないですが、経済的な問題に対して、神は様々な方法と知識、知恵を与えて、様々な人々からの祈りと資金的な助けを、聖霊様からの促しをあたえられた結果。無事に引っ越しが出来ました。
正に3節の言葉通りです。

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幼いときから、詩編のこの言葉をくり返し読み返し、正に食べてきた気がします。
多少、自分的にアレンジしている部分もあります。 例えば「私の助けはどこから来るのだろう。あの山の彼方から来るのだろうか?その方が居て、私の所に来て、私を本気で助ける人は誰だろう?やはりキリストしか居ないのか?」とも言い換えたりもしています。

御言葉を繰り返して読むと、自分の身体に染み込んで、、多少のアレンジでこうなるのかもしれない?

食事をして、今日はステーキ 今日は焼き魚と記憶しても・・その栄養が身体の血肉に取り入れられたら・・
何を食べたかを忘れてします。美味しい記憶だけが残りますけれどね!
聖書は勉強として知識を得るために読むのではなくて。霊的な血肉の栄養源なのです。聖書を読みながら涙することもあります。 聖霊様が個人的に聖霊の言葉を用いて語られた時。 生きた言葉となります。聖書何章何節は一瞬、消えてしまいますね。

私の聖書の証には、時々。聖書箇所を端折る・・省略してします傾向があります。牧師なのにと、ご注意を受けたこともありますが・・(^0^)  美味しい御言葉の記憶は あのときのステーキ、刺身だったけれど・・どのような詳細な肉の部位だったのか! 美味しい刺身はただ美味しくて、細かな魚種のどの分野だったかを忘れてしまします。後から板前さんに聞き直し マグロのどの辺りかを聞く事は有りますね。

何章何節での記憶よりは 流れで 文脈で記憶しているからでしょうね。

御言葉を食べて血肉となることをお奨めします。文脈読みをお勧めします。

黙示録10:9 それで、私は御使いのところに行って、「その小さな巻き物を下さい」と言った。すると、彼は言った。「それを取って食べなさい。それはあなたの腹には苦いが、あなたの口には蜜のように甘い。」
聖書を食べるように読むこと大切です。
聖書はいつも甘くはない事も有ります。きつく叱り、注意を受ける言葉もあり、実行し難い言葉もあります。
それでも聖書は正しく、私たちを元気付けて励まします。また慰めて下さる神の愛に満ちています。
あの輝く立山の雄志以上なのです。

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 121:7 主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。
 121:8 主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。
今日の私の存在は、キリスト様によって存在しています。
神に逆らって過ごしていても・・『私の恵みは、その誘惑よりは素晴らしいぞ!』と 、優しく語って下さり 実証もして下さり、私に思い知らせて下さいました。

神は何もにもしてくれない!答えてくれない!とぼやき 嘆く方もいます。
神と向き合い方や 祈り方を変えてみると分かります。神は真実ですが、神が主権者です。神の決められたルールが有ります。一脱すると 中々 神は振り返らない事も有ります。
しかし、諦めずに 大声を出し探し求めた人には その愛を示さられます。探す事は 答えでは無くて、キリスト様 ご自身を探し求めなくてはなりません! 答えだけを求めると、答えが無い場合に遭遇する事もあります。

神は決して眠っては居ませんからね。
121:4 見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。 と書いてあります。目を覚ますのは、私達の方です。

神への祈りは永遠です。

この詩編の作者 ダビデはイスラエルの一番高い山 ヘルモン山{シリやとレバノン、イスラエルの国境を境にして 2814m}を見上げながら、この詩編を書いたのでしょうね? 
下記の画像がヘルモン山です。

Hermonsnow


 ダビデは祝福と苦難のくり返しの波瀾万丈人生でした。
その中で、立ち止まり、祝福を受けてエルサレムに登るときの歓喜の歌です。
神のご人格を理解している詩編です。 私達も神の人格に触れた祈りと賛美を捧げたいと思いますね。

イスラエルの山と言えば、ギルボアの山にはこのような事も記載されています。

サウル王がペリシテ人との戦いの際に陣を構えた。この戦いで、イスラエルは敗北して、ヨナタンアビナダブマキエ・シュアがギルボア山で戦死した。

ダビデはサウルがこの山で死んだ故に、この山を呪った。そのために、今日もイスラエル政府による緑化政策にもかかわらず植物が育たないと言われているそうですよ。
ダビデの祈りの力ですね。  

また地を解放する祈りも必要ですね。=呪いを祝福に変える=ヘンリーグリーパー師のミニストリーにもつながっています。

聖書は勉強、知識を得るためではなくて、神との交わりの道しるべ。霊的に食べる食事ですね。
聖書には その食事のメニューが一杯あります。美味しい食事をなさって下さい。

あなたさまの祝福を祈ります。

 
                    

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