3月3日 ひな祭りですね。ひな祭りの人形に生まれた子供の災いを身代わりになってもらい川に流す習慣がありました。今は雛人形自体が高級品となって川に流す事は無いけれど、紙に書いた雛人形を流す習慣が今でもあるようです。
さて、1968年、昭和38年の大雪のひな祭りの日に私は洗礼を受けました。14歳でした。時の流れはあっという間です。
教会に行って2回目にイザヤ書53章の朗読があり、その言葉から意味を知りました。
私たちの災いや苦しみや病をキリストが背負ってくださると言う事を知り、納得出来ました。
イザヤ書53章には以下の言葉が書かれてあります。
53章1〜12節 * 主とは神のこと
1、私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか。
2 彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
53:7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
53:8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。
53:9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。
53:10 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
53:11 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。
53: それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。
14歳だった私は朗読なされた意味の全てをその場で全部理解は出来ませんでしたけど、キリストは人を知らず生まれ十字架にかかった事は知っていましたが、イエス様の生涯が生まれる前の紀元前701-681年の間に書かれその通りになったことに驚きました。
またそんなに簡単にイザヤ書の言葉が納得できたこと言いますと、「打たれた傷で癒される。」と言う言葉から納得できたのです。この教会に行こうと思い立った理由の中には、私自身の扁桃腺の癒しを体験していたからです。この教会に行く半年前ほどに、私は扁桃腺の手術のため2人部屋に入院しておりました。
隣のベッドの人がラジオを聞いており「うるさいなぁ〜」と思いつつも、ラジオで語られている福音放送に少し耳を傾けてしまいました。
外国人のたどたどしい日本語で、「病気で入院している人がイエス・キリストによって癒されるように。そう思う人はアーメンと言いましょう!」のアナウンスに耳を傾けてしまい、
キリストに祈る意味も良く理解してはいませんでしたが、本当に神様がおられるなら、治りなりたいと、アーメンの意味もわからず、この神様にお任せしようと決心して・・「アーメン!」言った途端に頭からつま先まで何か?電気が流れるようス〜ッとスキャンMRIされるような感覚に襲われて感動感と温かさ包まれ、なぜか涙が溢れてしまったのです。
話を戻して、先ほどのイザヤ53章から、預言は驚きでした。キリストの生まれ、その生涯が書かれた通りにそれは実現したことに、驚きを隠せませんでした!!キリストが十字架に掛かった後に蘇った、復活したことを知り驚きました。
14才でしたが、キリストは人知れず家畜小屋で生まれたことと十字架で死んだことくらい知っておりました。
予言通りになり。人の苦しみや病を身代わりになったんだと前記のイザヤ書を読み上げた後、詳しく教えて下さり理解しましたし、私を癒やされた信じようと思いました。
小さく祈った印を求めたとき、クリスマスの星のように流れ星が観たいと呟いた途端に。それが目の前にあったからです。そして、この神、キリストを一生涯 礼拝していこうと心に決めました。
両親は仏教を信じていてその様子を見ていてあまり仏と言う存在に疑いを抱いていたからだと思います。なぜなら仏を信じている両親を見ていて苦労ばかりしていたから良いことないと幼心に思っていました。
神から離れない決心には、詩篇第1のお言葉があるからです。
栄えるとは経済的なこと、名声的な意味より心の豊かさ、キリストに在る救いだと私は思います。
キリストを信じてもたらされる霊と魂の救い 心の平安があなたにもありますように
お祈りします。