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心の風景、愛の聖書、福音と癒やしと日常から。ミカエル小栗

ミカエル小栗がつづる心の風景。聖書の福音は愛と救いと癒やし。日常の出来事の心の雑記帳風景ブログです。聖書に基づくカウセリング、祝福と救いと心の癒やしを祈ります。あなたの教会のメッセージ奉仕もします。ご依頼はメールにて!

タグ:#愛

悪魔の誘惑

しかし直接!悪魔の声はそうそう 聞こえ無い。直接!サタンの声をハッキリと聞き分けたのはキリストです。

何故なら、サタンにとって 私たちの霊の価値はキリストに比べて小さいかも知れない!?
サタンは父なる神に逆らうようにキリストに迫りました。
私たちが悪魔の声を聞いたように思えるのは、私たちの中に潜む 欲望が 自身を誘惑するのではないだろうか? サタンに価値のない霊の私たちであっても、私たちがキリストを信じて救われないことは、天国においては大きな痛手となります。神の愛はサタンより大きいのです。

聖書 読むのが面倒  これは誘惑では無く  意志から克服 出来る。怒り 許さない心も 聖書の言葉と祈り、聖霊の助けから克服出来る。聖書は沢山一気読むよりコツコツ 積み上げ記憶すると 聖書の言葉が生きて 私達を助けます!  

神は助けないとか、神はいないとおもわせるのは、サタンの手下=悪霊達です。失望させて神から、私たちを引き離そうとしています。 神と出会う人、エデンの園で、サタンから直接の誘惑を受けました。 誘惑、仕向けさせて、私たちに実行させるのです。目には美味しそうに見させるのです。{食べてはいけないと知っていても、食べたい欲望が強くなったのは、アダムとエバじしんでした}


私たちはクリスチャンと言うが キリストの何をして信じるのでしょうか?

私たちはキリストの十字架を通して 永遠の命を与えられた事を第一に 感謝し賛美する者に成りました。キリストはサタンよりも、私たち1人ひとりの霊を大切に扱われます。その証拠として上げる第一は、キリストの復活です。


教会に行く、目的は?

クリスチャンたちから親切にされたいと教会に行っても良いが、本来は神と出会い 神から直接 慰められる存在です。


各教会にての儀式 教会礼拝形式を受けても、恵みや教えは一時的に濡れる雨の水と同じ! 一瞬 濡れる=恵まれる。でも 直ぐに乾く、 魂も乾きます。乾き続けないように教会での礼拝は重要です。

クリスチャンからの親切や世話を受けても 直ぐに 渇く。クリスチャン同士と言えども、そこは人間、争う誤解も生じる悲しさがあります。 赦しの心を神は求めています。
礼拝より、クリスチャン同士の交わり 楽しさを第一にするのは、幕屋や神殿の前庭に楽しんでいるだけに終わります。

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神のおられる至聖所に行かないと行けません。
すると神に出会います。
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礼拝した後、 聖書を読み 再確認します。祈りは神殿で 幕屋の中庭で香を焚く行為となります。
神の基本的な考えを知り 真剣に神を探し求めるなら、直接、至聖所で神に出会う。

箴言 8:17 わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見つける。

これには期限はありません。何時も祈り探す人には神は答えます。
神の声や 臨在、そして御心の確かさを体験します。
神の約束を固く固く信じ切った者の恵みです。神に出会うならば サタンの声も大きく聞こえてきます。油断大敵です。 
サタンは 神の居るエデンに来て アダムとエバを誘惑しましたから。
目を覚まして、神の声を聞き分けたいものです。

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赤い色のベゴニア。

パッション 燃える思い 激しい恋い。赤い色から色々イメージ。キリストの流された血潮も赤いイメージ。
でも赤い色からのキリスト血潮のイメージは、普段の生活の中ではあまり意識しないです。

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ただ、辛い時、苦しいとき。病気の時、 一番。思うときはやはり・・失敗した・・繰り返して罪を犯したときです。
 
聖書には律法が有ります。聖書的な律法って何だろう!? 

時々、この律法で、アーだ! こうだと議論しているSNSを見ます。それはSENの世界だけでは無く、歴史は繰り返される・・?
イエス様に、旧約の律法から問答しているパリサイ派、サドカイ派がいましたね。

聖書の律法・・それは人を罪に定めるためでは無く、神様が嫌いなことを書いてあり、神様が『そんな事をしないようね!』と語っている。
 
また律法は切り捨てるためでは無くて、救いに導く道しるべです。
 聖書には義人は一人もいないとも書いてあります。罪人が、聖書からの律法問答をして罪人を裁く何で出来ないはずです。

律法で罪人を裁くならば、その裁いた人が、神から裁かれます。
律法は差別のためでは無く 、神の愛の深さを知るためです。悔い改めに導くガイドライン。救いに至る道しるべです。

その救いとは永遠の捌きからの救いです。永遠の裁きが行われる場所は地獄です。

地獄での捌きと苦しみは永遠です。ラザロと金持ちのことをイエス様は語られました。私たちは死んでからでは遅いのです。生きている間に、律法から悔い改めに導かれなくては成りません。

キリストの愛は永遠の愛ですが、同時に、神は激しい怒りの神、捌き主の神です。
これを回避できる方法は、旧約聖書の律法書に書かれてあるように、神様が好まれる清い動物を神の前に捧げて 殺して血を流さなくては成りませんでした。罪の代価は死だからです。

その代価!キリスト様が、その身体を持って、私たちの罪の身代わりとなって下さり、十字架の上で死なれて、私たちの代価を支払って下さいました。

流されたキリストの赤い血潮が、己の捧げる犠牲の身代わりと同等の値を認めて頂くことのみ、救いの道が無いのです。

イエス・キリストの死が、自分のためであったと信じる者が救われるのです。
これを否定できる人の選択の自由も、神は残されています。神は、人々に人格を与えられ自由を与えました。何故か_神のご性質の一つに自由があります。人を創られたときに、神の性質に似せて創られて、神の性質の一部を引き継ぎ頂きました。

神の与えた、自由を神は否定しません。私たちは自由人であり、奴隷では無いのです。
自由人を立ち止まらせて 考えさせる役目が律法です。

神は愛です。

地獄!?愛の神が地獄を創らない、信じないと言う方もクリスチャンの中にはいます。
強いて言うなら、

神の業 思いや神様の言われたことの一部を否定するならば、神の人格を一部 否定していると同じです。

私たちが永遠の裁きの場所に行かないように、天父なる神の右手に居られて、私たちのために日々執り成して下さっておられます。

そのようなイエス様の臨在があります。

私たちは聖書の律法を用いて、人の裁き愛をするのは、如何でしょうか?

裁きに勝る物は、神の愛の深さ・・つまり。・・赦しです。

感情や怒りから許さない人は、神の恵みからは遠のきます。 律法を用いて、人を裁くならば、裁いた人が、神から裁かれます。


           
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下記を参照
 
マタイ 12:2 すると、パリサイ人たちがそれを見つけて、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」
他多数。

永遠の裁き マタイ25:46 こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」他の聖書箇所も有ります。

ラザロと金持ち
ルカ16:22 さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。 16:23 その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。 16:24 彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』 16:25 アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。 16:26 そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』 16:27 彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。 16:28 私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』 16:29 しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』 16:30 彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』 16:31 アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」
罪の赦しと
贖罪と犠牲
出 29:36 毎日、贖罪のために、罪のためのいけにえとして雄牛一頭をささげなければならない。祭壇のための贖いをするときには、その上に罪のためのいけにえをささげ、これを聖別するために油をそそぐ。
レビ 4:32 もしその人が罪のためのいけにえのために、ささげ物として子羊を連れて来る場合には、傷のない雌羊を連れて来なければならない。
旧約聖書 レビ記他

ここで身代わりの子羊 キリストが神の子羊と呼ばれる元となる。
神は私たちの歩む道を示す。

詩 25:4 主よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えてください。

私たち は神に似せて創られた。
 
創5:1 これはアダムの歴史の記録である。神は人を創造されたとき、神に似せて彼を造られ・・

罪を犯さない人はいない。

ロマ 3:10 それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。
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