いつも心に

留めている言葉があります。それは下記の言葉です。

 旧約聖書の詩編 103:2 わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。と言う聖書からの言葉です。

日常の生活の中で感謝な事があれば、心の留めて繰り返して感謝し賛美します。
何か良いことが有れば、神に感謝を捧げます。何か人から親切にされても、何か頂いても、その背後にある神の支えや恵みを感じられるならば、その方、個人と神に感謝を捧げます。
只。一度の感謝や賛美ではあまり意味が無い気がします。 

繰り返すことを聖となさった神様です。 何のこっちゃ?(^0^) 

申14:4 あなたがたが食べることのできる獣は、牛、羊、やぎ、
 14:6 および、ひづめが分かれ、完全に二つに割れているもので、反芻するものは、すべて食べることができる。
サックリと言うならば、反芻する動物を神は好まれました。その行動から甲斐が見ると、神の御言葉を繰り返して、繰り返して::神の御言葉を味わうことを喜ばれる神の気質がうかがえますね。

さて、昨日は繰り返して賛美できる嬉しい出来事。知らせが届きました。

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九州にお住まいの方に、祈りのハンカチを、お送りして、乳がんが癒やされたとの連絡を受けました。 誠に、誠に感謝。神を賛美します。

乳がんは女性の大敵!悩みの深いです。乳房を失う悲しみは深いです。
家族の方からの相談で、手術をためらっていた方の為に、祈りのハンカチをお送りしました。
今は、乳房を失っても、人工皮膚を使用した乳房を作れるようになっています。

早めの手術を行いながらも、神の癒やしを求めるようにお奨めしました。そして、昨日、術後の経過が良くて、感謝のお手紙が届きました。今朝に成って、電話でそのようする伺いました。
乳がんの方はクリスチャンでは無かったのですが、親族=相談者から渡された祈りのハンカチを握り手術台に乗られました。

 手術が成功して、キリストの信仰も芽生えたようです。感謝ですね。
私自身の記憶に深く残り、繰り返して神を賛美できる出来事です。
良い知らせは何度。聞いても嬉しく、何度も神様を賛美できます。
牛が食べ物を繰り返して反芻するかのように・・

一度あった 受けた恵みを繰り返して思い起こすと、また別な角度から、神様の御心の深さを味わい知る事が出来ますね。

生きる事、この世に生を受けたこと自体が、神の恵みであり御心です。
その事をどのように活用していくかは、私たち自身の責任、考え方 とらえ方次第です。

乳がんで、乳房を失うことをを、拒否なさる方もいるようです。

それは死を待つことになりませんか?それは自殺では無いでしょうか?生きる事は神の御心ですから、手術が受けられるチャンスも神の恵みです。

生きるために必要な衣食住を、幼子のように成って求めます。神は必ず答えます。幼子のように求めること事態が神の心です。答えを出すことは神さまです。

 この間には・・つまり父なる神さまが、回答を出すまで時間差が伴います。そこには忍耐が伴い試練とも受け取られることも多いです。でも答えられるときまで食い下がっても祈りましょう。

 さて信仰だけで病気を治すとか言う人。行き過ぎには、私は反対です。
医師の知識も活用して、分かった患部に合う用に、細胞の復活など適切なあらゆる面からの祈りを、私は行っています。 

 逆に祝福の祈りをしていると、身体に癌が有る事が分かった例が3件あります。 私の忠告=病院での検査をするように伝えて無視した方が、お一人が手遅れになり、お二人が病院の検査を受けられて手術を受けられて、今もお元気です。

 
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癒やしの祈りには様々な問題 信仰姿勢がためされます。 クリスチャンでも真っ向から癒やしを否定する方には、悲しくなります。何故かと申しますと、神のご性質 人格の一部をなしているのは癒やしなのです。
癒やしを否定することは、神様を否定するのと同じでは?とそんな気がします。

父なる神の最大の癒やしは。私たちの魂の癒やし 永遠の救いのために。御子キリストを十字架に架けてさえも救い、癒やしをお与えに成られたことではありませんか?