疑うことから、 
不信が生まれます。 

理性から、信じようとしますが、信じられない時は、ジレンマからウツ症状にもなりやすいですね。
 
期待していた人、愛する人が急に亡くなったと思っていたら、未だ死んでいないと聞いたら、通常の常識を越えてしまいますね。 
それを経験した人、トマスがキリストの弟子の一人でした。
彼がキリストの復活を、肌で体験した人です。
キリストの弟子からは、キリストが生き返った、復活したと聞きましたが疑い不信感を持ちました。

神はその不信感を、キリスト様の豊かな愛が、トマスの疑いを払拭しました。
彼の眼の前に現れ。トマスの心を癒して訓戒し励ましましたね。トマスは、キリストの手に大釘が打たれ穴が空くことを、その目で見ていました。トマスは泣き、心に深い傷を負いました。しかし、その穴の空いた手を出し、キリスト様が慰めた一番の理由、方法だったのではないでしょうか?
ペテロは逃げ出して、十字架の丘には行かなかったかもしれない。
ここに神の個人的対応が在ります。


神は奇跡を起こす方。
           
奇跡は、神には何でも無いこと。神を知らない人には、奇跡を持って、神は接して下さるね。奇跡を求めることが第一では無いけれど、神を真剣に求める人には奇跡やしるしが伴います。それは神ご自身の人格、ご性質だからです。

奇跡やしるしを求めることは、信仰が弱いからだとは?
(ヨハネ20:29 から癒やしや奇跡を求めなくても良いと言う方。求めるの不信仰だからと言う方も中におられます。)
 
色々の神からのしるし、奇跡 癒やしは、神をより深く知って信じる為なのです。このヨハネ20:31 に着目しなくてはいけないと思います。
トマスだけが、イエスの身体に触れること(復活後、マグダラのマリヤはイエス様の身体には触ることが出来なかった!) トマスだけが許された意味を知って下さい。

ヨハネ20:29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」 
この29節から、しるしを求めるのは信仰が弱いからだ!と言いきる方もいます。
けれど、30節から注意すると 神を信じるために必要でもありと書いて有ります。
 
 20:30 この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行われた。
 20:31 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。
 
キリストが天に昇られた後、ペンテコステの聖霊降臨が来ました。 
その後、弟子たちの祈りが変わりました。
 
使徒行伝 4:30 御手を伸ばしていやしを行わせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行わせてください。」

癒やしやしるしを求めても良いのです。決して不信仰だからしるしを求めるのでは無くて、神の栄光を、世の中に伝えるためです 。

名誉や自己満足のしるしと奇跡を求めても起きません。ご注意下さい。
諦めずに祈る、祈り続けることも必要です。 神の御心の時があります。

神に感謝します。私自身。母のアルツハイマー痴ほう記憶喪失からの癒しや私自身の癌からの癒し回復がなければ、こんにちの私、クリスチャンとしての、私がいませんでした。
しるしを求める人は信仰が薄いと言われがち!しかし、それは違うと思いました。
 
ご覧下さり有難うごさいます。神の祝福がありますように。
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