前回も映画を見ての感想を少し書きましたが、

私たちは、知らぬ間に、サタン・悪霊の影響下に置かれています。
悪霊はいないと言う方がおられたら、それは聖書を否定する事にも成りませんか?
キリストは、その生涯の宣教活動を始められる前にも、十字架に掛かり前にも、サタンの誘惑に勝利しました。
私たちは色々の祈りますが、祈る対象はキリストだを思っています 。
私たちの信仰が御心に添った良い方向に向かえば向かうほど、その信仰を駄目して神から引き離そうと勢力は活発になります。

       

有名な聖書箇所にも書かれてあるように。
ヨブ1:9 サタンは主に答えて言った。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。などと言って、神様にヨブしています。
けれど、これはヨブだけでは無いのです。
あなたの信仰が燃えれば、燃えるほど、神と私たちの間に介入して信仰を駄目にしょうとしています。
神さまから許可を貰うのは、最終段階の私たちの命を取り去ろうとするときです。永遠の命を奪ってサタンに跪かせる為です。
聖霊はエペソの教会を通じて、私たちに警告をなさいました。 
エペ ソ6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
 
血肉とは何?? 

そうです。私たちの身の回りの人々に働きかけているのです。働きかけてきた人々も、自分の感情や考え方の根底。奥の奥にある思考の影響を受けていること、出来事の事柄、一つ一つにサタン・悪霊の影響を受けていることさえ気が付きません。

案外教会内の出来事で傷つく人も多くおられます。家庭内では親子げんか、兄弟喧嘩 夫婦の離婚絵と発展しています。 感情の爆発です。けれど、冷静になり、キリストの言葉と、神のご性質からみて、その視点から冷静なれば、許すこと愛することが、とても深く重要な意味を持ってきます。

一旦。問題が起きるとその事だけに考え方が停止してしまいます。それど神様の基本的な考え方に戻ると、愛と赦しになりませんか?

私たちを悲しませ、苦しませて、神は居ないとか! 神は無力、神は私のことな、どどうでも良いのだ!思わせるのです。その問題や事件、人々に注目が行くと、サタンの仕業とは一層、思えず見えなくなってしまいます。

キリストはサタンに勝利なさいました。この神の権威は、十字架を通して、私たちにも付与されているのです。十字架の救いを信じた者は、神の子であり、神の財産と権利を引き継ぐことが出来るようになっています。
この神の権威と力を信じて、
エペ ソ6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

勝利できるのです。色々の出来事を恐れず、不安に(ヨブは息子たちの件で不安を抱いていました。その点をサタンは、手始めにその不安を用いました。)おちいらず、神を見上げて信頼し、勝利宣言を、私たちの口ですれば良いのです。

明日の計画を立てても、上手くいかないのでは?と不安に陥らない。
色々の病になっても、死ぬのでは?治らないのでは?と不安を抱かない。
神は全能者。神には出来ないことが無いとキッパリと告白するようにお奨めします。
神様ご自身が宣言しておられることなのです。『わたしは
は全能者。神には出来ない事は無い!』と宣言しておられるのですから、この観点、視点から考えて祈れば良いのです。
神の神格、人格とも言いますが、かたくキリストを信じれば良いのです。中途半場に信じないことです。
『神は、私のことなど、どうでも良いのだ!」と告白しない事です。
神はあらゆる点で、神の子である、私たちが幸せに。平和に暮らせるように、祝福して癒やそうとなさっておられるのです。 人を赦し、自分自身を許し、そして、神様への怒りと疑問を許すことが、祈りの回答を引き出すポイントになる気がします。

神の権力と祈りには力があります。その神の権威を酷使してサタン エペソ6:12のごとくに立ち向かうことが問題解決の近道です。恐れるのはサンでは無く、問題や出来事では無くて、神ご自身を恐れなくては成りません。キリストの十字架の力と救いを信じる事です。