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心の風景、愛の聖書、福音と癒やしと日常から。ミカエル小栗

ミカエル小栗がつづる心の風景。聖書の福音は愛と救いと癒やし。日常の出来事の心の雑記帳風景ブログです。聖書に基づくカウセリング、祝福と救いと心の癒やしを祈ります。あなたの教会のメッセージ奉仕もします。ご依頼はメールにて!

カテゴリ: 今日の出来事

クリスチャンが抱くキリストの美しい名は「神は愛」

何でも許されるイメージ!しかし真実は差し迫る事から救い出す。

けれど最後の審判から回避する為の期間限定の憐れみ深い愛だと思う!
その回避と憐みの象徴と証が十字架です。
差し迫ることは、私たち一人一人が迎える死であり、再臨と主イエスの最後の審判です。
神は愛だと思いすぎると愛=甘えがキリスト教会内で起きてはいけない気がします。
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気を付けないといけないことが有ります。・・
「神は愛なり」に隠された 神の厳しい義があります。
神の義に反すること、神が望ましく思っておられ無い事から離れられるように助け導く聖霊をお迎えします。

父、神子、聖霊以外に心を寄せて 心の拠り所にすり替えるなら、それはすべて神の目から見たら偶像になります。神からの目と人の目は人間が良いと思うこと。「目に麗しく、賢くすると言うその木は(実)いかにも好ましかった。」創世記3:6 を見るときはある時点では微妙に違ってきます。神の創造はすべてうるわしく整っていました。見た目の麗しさと御心との相違もあります。

人間的に良い行い、善行だけでは救われない。ロザリオの祈りなどの回数 十字架を飾る。
とりなし手が祈りから、自分は祈らなくてもいい。聖人に祈って主には祈らないなどの違いもあります。 これは神の目{御心}にかなっているかを考えます。 違和感を感じたら御心に添えるよう聖霊の助けを求めて、その機会、是正を出来るチャンスを探し誠心誠意改めることができるように聖霊を求めます。
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十字架の前で祈る。聖人の聖画の前で祈る。ある人はそれは偶像では無い、
十字架や聖人画を神を通してみているのだと主張します。その判断は人では無く神様では無いだろうか?

人は様々な理由を考えます。
議論します。
同性愛を定義します。人間愛だと言います。でも最終的には神の判断が優先されます。
い今は同性しか愛せない。その原因は様々です。けれど神の愛を知って、神の思いに近づく事を怠らない方が良い気がします。神の深い愛と気づきから是正が出来るように祈り求めませんか?
同性愛ばかりじゃ無いはず。ほかにも神の御心から的外れがあると気が付くなら、神の御心に近づけるように祈り求めませんか?

神の愛がわからない。全ての事が許されていることを知るなら、神の深い愛を知るきっかけになる。強制され命じられるなら、それは本当の愛ではない。私たちの自主的な意志を重視した愛がある。

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「もし御心なら杯を取り除いて下さい。」三日間の苦しみに我が身を重ねて!
先日の岡山からのドライブで帰宅後、何故か?急に背中が痛くて激痛!痛くて痛くて、立っても座っても寝ても痛くて睡眠不足が続きました。

病院に行こうか?深夜に救急車はあまり呼びたくないし、。ベッドに横たわっても背骨が痛くて寝れませんでした。
そういえば今週は受難週だなぁ〜 キリストの十字架の苦しみと復活までの三日間を思いめぐらしながら激痛に耐えて夜中じゅう泣きながら叫んで祈りました。
打たれた傷によって癒されるんだと固く信じて祈り続けました。
すると3日後にすっきりと痛みが切れて、朝から動けるようになり背骨の激痛が全くなく嘘見たいです。 そんなわけで、三宮まで買い物に行けました。
キリストご自身の語った言葉には偽りはなく、キリストの義、言葉の正しさによって癒されたことを再認識します。エゼキエル36章22節から26節
これが心臓発作とか脳梗塞のような状態であれば深夜でも救急車で病院に行ったかもしれませんが、腰痛とか背骨の痛みだったら多少我慢して祈っていても大丈夫だと思ったか判断です。
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イエス様がイチジクの木を見つけて食べたいと思われた。けれど季節外れで、その実はなかったのですが、イエス様はちょっとご立腹。その木に向かって「お前の味は誰も食べないようになる!」と言われたら、翌日まで枯れてしまったイチジクの木です。
ありえないこともイエス様のお名前と信じる言葉から様々なこともできるようになりますね。
それにはやはり何度かの失敗と訓練とイエス様の言葉を固く信じることが必要かと思います。 弟子達もイエス様に伺って、『どうしたら出来るようになりますか?』と聞いておりますね。
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誰かが言ったけど、100%の信仰ないと救われないと言い切る人がいます。
逆に100%信じなくても救われると言う人がいます。これを言う方はイエス様は愛だからが理由として上げます。
どちらを選択するかで微妙な違いが生まれる気がします。
前者は聖書の教えに忠実でありたい。努力してもそれに近づきたいと言う強い願いを感じませんか?
後者は、自分の考えの方を優先しがちで妥協 自分の考え方の妥協点を聖書の言葉にすり合わせていく事が多い気がしませんか?
ただ 救いに関する信仰と信仰の行いは別だと私は思います。
誰でも十字架の救い=イエス様の身代わりが自分のためだったと告白し信じるだけで救われます。よい例がキリストと一緒に十字架にかけられた罪人が1人、告白して救われました。彼が何%信じたかも書いて有りませんが・・。あの十字架の上でのキリストの状況下では100%では無いだろうか?
もう1人は告白されず、その後、天国でどのようになったかは書かれてありません。
その他の信仰の行いは日々の訓練からですね。またキリストや12弟子の生き方 信仰姿勢を目指す希望と訓練、信仰の高嶺を目指すことから生まれてくる生き方から生まれでる力があります。
それは聖霊の導きと助け=介助が、周囲の人からの助けあるからだと思います。
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イチジクの木が枯れたと弟子たちの質問に答えたイエス様の言葉をもう一度再認識している今朝の私です。
マルコ11:23 マタイ17:21
イエス様がゲッセマネの園で言われた言葉があります。「御心ならこの杯を取り除いてください。」
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これは父なら神がイエス様に与えた使命{キリストへの固有の使命}でした。
なのでイエス様の杯は取らなかった父なる神なので、私たちが救われました。
また癒されました。マタイ26:39

文脈の流れからと読み取らないで、この言葉だけを取り上げると私たち日本人が謙遜や遠慮がちになりやすくないですか?
あまり強い願いの祈りを要求しないようになりがちです。御心だと諦める理由にしがちな私たちはいませんか? 私はそんな気がしてなりません!?
御心なら癒されなくても良いと言う逃げ口上にもなりかねない気がします。どのように受け取るかは、私たち側の問題だけど、。父なる神はハッキリと癒やす神だと自己紹介しておられます。
私たちの生活から生まれたばかりの赤ちゃんで信仰力が初めからありません。
しかし、いつまでも赤ちゃんの状態では神様はどのように思われるだろうか?
神にそそがれる愛を体験し味わわないと成長できないのかもしれません。
神様を100%信じれるようになるように、神様から訓練されて、自ら進んで訓練して成長していくのです。

適当な自分の考え方の妥協点で折り合いをつけて信仰を成長させることをやめるのは悲しいと神様は考えられるのではないかなぁ〜?
人の予想や仮説ではなく、聖書に土台とした言葉から基づいて生み出された神様への愛は強く成長していくのです。

天国に行った時によくやったと誰でも言われたいと思いませんか?
神様からたくさんのタレントを与えられている、任せられている私たちです。
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このブログはYOUTUBEにアップロードしました
動画を文字でも読めるようにと思い文字起こしををしました。以下がその通りです。

私は、小栗龍男と申します。ブログやYOUTUBEでは、ミカエル小栗。チャーチ・オブ・エルシャダイと名乗っております。

今。私がまとっている物はマントです。若い頃に駐在していたアルジェリアで購入。これよりもっと実用的な物を羊飼いが着ております。

私は民族衣装が好きで、駐在してきた国々の民族衣装を記念に買っておりました。
でも1番好きなのは日本の着物です。
     
お気付きでしょうが、神戸六甲山牧場からお話をさせて頂いております。
何故かと申しますと、詩篇23編と私たちと云うテーマでお話をしたいと思います。


多くの方々が、好きだ言われる詩篇23編です。
そして、私がこの詩篇に、自分を重ねた証しからですが、後半には後編はヘブル語の詩篇23の単語から思い浮かべる事柄をお話しさせて頂きます。
私はこの詩篇を身近に思えたのは、私自身が癌の疑い、宣告されたときです。神学校を卒業後、長期の断食を行って祈り求めた結果。神戸で開拓を始めます。

自活伝道ですので、私の仕事も住まいも見つかり、サーこれからと夢を持って開拓伝道を始めた矢先でした。仕事中に、私は激しい腹痛に襲われて、身動きできなくなります。

仕事を中断して、救急車で入院、検査をすると、先ず胆石があり、MRIでは胆管が膨れ上がり腹水溜まりかけておりました。医師に、「私には身近な家族が居ませんので、もし癌などがあるならば覚悟しないといけないのでありのまま告げて下さい。お願いします。」と伝えると医師は深刻な表情で、「癌の疑いは否めません!」と答えです。

そして、「今あなたは体力が落ちているので、直ぐには、手術は出来ません。ガンマーカーの検査結果は高い。暫く様子を見ましょう。」との返事を聞きます。
直面した現実に、祈る元気も失いました。私の妻も癌で亡くしているので、医師からの言葉は重く、私は死を告げられた気持ちになりました。そして、私は先が見えない不安な心に変わって仕舞いました。

聖書では、「明日のことを思い患うな。」と言う言葉がありますが、突きつけられた死という現実に恐れに覆われて祈る気力を失います。
神様が母親のアルツハイマー記憶喪失から癒やされていたことも忘れてしまうほどでした。
折角、ある方の支援で神学校を卒業し今から夢を持って開拓と矢先に、なんてことだ!と

「これが御心ならば、受け容れるしか有りませんが、デモ神様!あなたの栄光を現す私になりたい。』ですと・・あの方が、折角神学校に行かせて下さったのに・・と小さな思い、つぶやきとも言えます。

言葉というか祈りを忘れてしまうほど私は落ち込みました。失望感に覆われておりました。

呆然と数日を過ごすと、次の聖書の言葉を浮かびます。

「ふたり、三人が心を合わせて祈るとき聖霊が臨在して下さる。」という約束の言葉でした。

それは、マタイ18章20節に書かれてある言葉ですね。それで、思いつく限りの牧師、教会、友人クリスチャン達に事情を説明、多くの方々が祈って頂きました。

すると気持ちが落ち着く始めてふとある風景が心に浮かびます。

私の目の前には荒れ地の砂漠の谷間です。でもよく見ると、その先には緑の牧場が微かに見える風景でした。これは何だろうか?と思案し始めると、不思議に詩篇23編の言葉が重なりました。

そうだ!今は癌かも知れないけれど、母の時のように、神様の栄光を第一に求めその結果がどの様であれ、神様に従おうと決心が出来きました。

それも、神の御心の許しの中での病気であるなら、差し迫った不平不満、不安を捨てられるように願い祈りました。

告白できたのは、「私は今。死の谷間に居ますが、この先を通り過ぎたら、必ず緑の牧場、神様の居ることをに行きます。」と言う決意を告白しました。

逆説にこれは、ヨブ記の1章5節からでした。ヨブは息子達に対して余分な不安を捨てないで保っていたからです。余計は心配は避けよう!サタンが心の隙間に入り悪さをするという警戒心からです。

私からの祈りの要請を聞いた人たちが、次第に見舞いに来て下さるようになりました。
自活のために働き始めたばかりで現実的な心配がありました。それは入院費、手術の費用です。
手術の結果承諾とにも支払いにも保証人が要ります。現金が無くて困り果てました。

その間、医師に呼ばれ繰り返される検査が続きました。検査を終えて、ベッドに横たわろうとしたら、枕の下に封筒がありました。その中には現金が同封されております。

30万を超える金額が同封されて、相部屋の方に伺うと、「私も検査に呼ばれていたので、どなたが来られたのかは分かりませんね」という返事でした。
現在に到っても、その献金が誰からだったのか・分かりません。

手術後、麻酔が次第に切れていく夜に誰かが私の手を握り励まして下さいました。
それは無言ですが温かい手でした。

麻酔が覚めてから、看護師に、「誰か私の手を握り励まして下さった方を見かけませんでしたか?」と伺うと見かけませんね。「では、看護師さんですか?」『私たち看護師は、そのような個人的な対応はしませんから〜。』

では誰が・・? いまだに謎です。

麻酔が覚めながら意識がもうろうとしていましたが、あの手に触れられた、あの手の温かさ、今も感覚は忘れられません。

その後、あれほど腹水が有ったのですが、癌は消えていました。
微妙ですが、ガンマーカーの反応は残っていたそうです。胆石除去の場合は10日ほどで多くは退院するらしいのですが、医師からは暫く様子を見ましょうと言われ、汽月ほど入院延長になりました。 徐々にですが、あの癌反応 血液検査からも消えて行きました。
気を緩めずに、再発しないように5年間は祈り続けました。

さかのぼって、献身神学校に行けるようになったのは、あるクリスチャンが、学費のすべてをお一人で支援した下さいました。
その前にも、既にお話ししましたが、母のアルツハイマーからの回復、癒やしを神様が与えて下さって下さいました。

90年代の出来事です。

私は海外駐在から帰国して地元で小さなレストランを開業しました。
少年時代からの夢を実現したのですね。

順調に滑る出しました矢先に、母の発病でした。店の経営と管理、母の看病で疲れ始めて時に、兄弟からは、「このままではおまえが潰れる。母さんは病院にまかせろ!?」と言われますが、母の救いが、告白が未だでした。
母の様子を見たり、医師からの言葉で絶望的な母でした。
それでも、私の声に反応する日も稀に有りましたのです。

声の反応と言っても、誰が話しかけているかは分からず、「ご飯食べよう!」というと口を開ける仕草をしました。でも飲み込む事はしません。吐き出します。

栄養補給の管や点滴を打たれるようになり益々、ひどい状態になりました。
医師の治療は絶望的でしたが、人格が消えたようでも、霊は生きているから救いを求めるように祈りました。母自身の口で、神の栄光を讃えられるようになるように祈り求めました。

癒やしよりは、先に、、第一に神の栄光の表れ、救いを求めました。

その間に、わたしは店と病院の往復で疲れて倒れてしまいました。
折角の夢だったレストランを閉鎖することになりました。

当時。私が所属していた教会では、癒やしのことは余り語られず、何故?聖書に書いて有るのに、不思議なギャップがありました。
それで母の回復を求めて、キリスト書店にある信仰書から始めて模索し、癒やしのセミナーにも参加しました。
そこで観た癒やしの様子から、牧師には頼らず自分で祈って見ようと

聖書。マタイ17:21に書いて有るように断食をしました。

「ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません。」と書かれて有ったからです。

これで癒やされないなら、諦めるしか無いけれど「癒やしは別にしても母を救って下さい。」と神様に嘆願しました。また「母が救われたら献身します。」とも神に伝えました。

それから三日後、病院に行くと、正座した母が「おまえ、わしを一人にして何処へ行っていた?」と言うので、唖然としました。

「母さん、僕が分かるの!?」「馬鹿言うじゃ無いよ!」看護師がきて「良かったね。努力が認められたのよ」と云われ、母が回復したと思いました。医師が病室に来られて奇跡的回復だよな〜とも語って下さいました。

驚きながら、感謝しながら、献身すると言ったけど、振り返って本当に自分がふさわしいのか?と
新たに思い悩み始めました。
それから一年後、ヘンリ・グルーパ師が富山にも初来日ないました。

その時に、「神があなたのビジョンを祝福します。」と語られ、何故?私の祈りを知っているのだろうか?驚きならも涙に溢れました。
その場を観ておられた先ほどのクリスチャンからも支援が有り、神学校に行くことが出来ました。
ヘンリー先生が語られた3日後のことです。

今まで述べたことから、私が詩篇23編が、私自身の歌になり、讃美に変わりました。
死を覚悟したり、希望が無い、人生計画失望があったも、先が見えない、しかし主の杖が導く方向を指し示す。新しい水飲み場を与える神様です。

詩篇の通りです。

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さて、詩篇23と私たちの関係をヘブル語から見てみましょう。

1節は、主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。で始まります。

ヘブル語ではアドナイ・ヤハウェハ=神、羊飼い。と始まるの二つの単語です。

ヤハウェハは、在るて在る者。存在を示す言葉で神にしか使えない言葉です。

その神がアドナイ・イルエ、満たす神である。と始まります。

また羊飼いと書いて有り、羊をも守る存在です。

ダビデ自身も羊飼いは身近な存在です。少年期から父親の羊を見守ってきました。


2節 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。

2節は8つのヘブル語単語から成り立っています。

{牧草地の中に}女性名詞と前置詞。青草。圓燭錣擦襦の辺に。水辺。諸々の水。安らぎの。完全に導きました、これは{強調された意味。}から成り立ちます。

羊は神経質です。自分は安心できないと固まって身動きしません。
水飲み場が無いと死んでしまいます。その水も羊が安心しないと飲みません。

羊飼いは羊たちが安心できる牧草と水を与えます。神様も私たちを同様に扱います。

私たちは神様を拒否しない限り、迷わない限り 安全な状態に暮らせるように導きます。

神が選んだ場所に導かれます。私たちにとって、その場所が最適だと判断なさいます。

3 節 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。

ヘブル語では8つの単語から成り立ちます。

私の魂を、導かせます、私を、諸々の道に、義の、〜の故に。彼の名からで成り立ち、

御名のために私を義の道にとは?

私たちの羊のためでもありますが、彼の義とは、神様ご自身の正義ですね。
私が先ほど証しさせて頂いたように、絶望的な母の癒やしや 献身者とふさわしくないのでは?と
言う疑う、先行きの不安以上に。

神の計画が優先されるのは神の義、御心を優先されるときがあります。

聖書イザヤ書41章10節にも書かれてあります。

「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」と書かれてありますね。

神様が守ると太鼓判だと書いて有ります。

また。エゼキエル36章22節から26節にも私、神が行うのは、ご自身の名誉のためだとも書いて有り、
清めること。新しい心を与えるとも書いて有り、神様ご自身が保証しておられます。

なので、先行きを私がを恐れていたら。今日の私はありませんでしたね。


4節、 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。

ヘブル語では、主要な単語は14個で構成されています。

(私は)歩む、 谷において、死の陰の、〜ことはありません、(私は)恐れる、悪い(ことを)なぜなら、あなたが、私と共に(いる) あなたの鞭が、そしてあなたの杖、{そしてあなたの杖と訳されましたが、爵との意味もあります。王様しか持てないのです。}
それらが、慰める、私を、その他の接続詞もありますけれど。

御言葉から、死の陰とは?羊には絶体絶命な状況下ですね。

オーストラリア森林火災を覚えておられるでしょうね。コアラや沢山の動物と人々が犠牲になりましたね。
牧草地が火事になれば、羊たちは彷徨います。羊は死を覚悟しないといけません。
燃えさかる火の輪、その中に神が立って下さり羊たち、私たちを守る事を意味しております。
差し迫る炎をと云う災い、現実の中に神が来て下さるのです。

ダビデも多くの予期せぬ災いを経験しましたね。その時、神様はダビデに行くべき道 知恵を示されましたね。

日本人の考える鞭や杖は叩く道具ですが、私が観た羊飼いは決して叩きません。

私がアルジェリアで、道を歩いているとき、向こうから羊の群れがきました。

すると羊は立ち止まりました。羊の後ろから声をかけられました。
「ムッシュ、道を空けてくれないか!?」と・・
私が道を空けてよけると、羊飼いが持っていた杖で羊にその杖を差し伸べると羊たちは動き始めました。
棒ともとも訳された中には王様しか持てない爵という権威の象徴の道具の意味も隠されております。

神は神様が使用なさる方法で導かれる安心感をダビデは詩篇の中に読んでいます。

23:5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
ヘブル語では、主要単語が10個で構成されています。前置詞と接続詞もありますが数えませんでした。

(あなたは)整えます。私の面前に、食卓を、〜の前に、私に敵対する(者たち)。
あなたは(完全なる)油を注ぎます。油によって、私の頭に、私の杯は、満たす(充満する。)

敵の前で宴会を催される神様を表現した歌ですね。宴会をもよす環境と、時が必要ですが、
神様がその環境をあらかじめ用意されるとダビデは語りかけています。

宴会を催すにはその宴会係が働きます。招かれた客は黙って座るだけです。
神が開催された宴会に、私たちはただ主席をするだけです。

神の招きを断らずに、主席すると頭に油を注いで最高のもてなしを受けます。

昔は香油ですね。それも高価な香油、あなたもナルドの香油の話を思い出して頂けませんか?

日本人は小さな杯を思い浮かべやすいですが、外国の杯はワインカップ、
しかも大きなカップを意味する言葉です。

溢れるほど注がれる神様からの歓迎の祝福を受けるのですね。

6節を観てみましょう。
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

ヘブル語では約15の主要単語で構成されています。
確かに、善が、そして慈悲が、追いかけます、私を。日々の、そして慈悲が、ことごとく。
私の生涯の、そして(私は)住みます。

家の中に。主、ヤㇵウェㇵ=在る者=の、長い期間に及んで、日々。

ここではダビデの主なる神への献身と決意が表明されている言葉で締められております。

ダビデ自身も、父親兄弟から彼を忘れられた存在でした。
サウル王からも殺されそうになり、最初の嫁からも馬鹿にされました。それも彼は神に信頼しておりました。
そんな中でも、ダビデは大きな過ちを犯して仕舞いますね。神様は予言者ナタン通してから、ダビデを責められます。
彼は大きく悔い改めます。
またダビデは税を徴収するために人口調査のような改革策をした。ダビデは、いつの間にか王国を主なる神のものではなく、自分のものとした過ちを犯しました。

それらから彼が建てようとした神殿は受け容れられず、息子ソロモンが神殿を建立するようになりました。
それでも彼ダビデは何時でも悔い改めて、神から離れない決心を繰り返して告白しております。

ダビデの告白、悔い改めの言葉が残されております。

詩編 51章11節 私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。
切実な願いは神は聞き入れます。神はその儀によって、ご自身の言葉の守って下さいます。

さぁ〜 私たちも献身、神から離れないで神、主の家を住まいとしませんか?

最後にこの聖書箇所と詩篇23を読みたいと思います。

詩70章4節と5節。 あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。
あなたの救いを愛する人たちが、「神をあがめよう」と、いつも言いますように。
私は、悩む者、貧しい者です。神よ。私のところに急いでください。

あなたは私の助け、私を救う方。主よ。遅れないでください。

主の助けは、私たちの思いを越えて何時もグッドタイミングですね。

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詩23編を読みます。

主は私の羊飼い。
私は、乏しいことがありません。

主は私を緑の牧場に伏させ、
いこいの水のほとりに伴われます。

主は私のたましいを生き返らせ、
御名のために、私を義の道に導かれます。

たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、
私はわざわいを恐れません。

あなたが私とともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。

私の敵の前で、あなたは私のために
食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。
私の杯は、あふれています。

まことに、私のいのちの日の限り、
いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。
私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。


長きにわたってご覧下さり、
まことに感謝申しあげます。

あなた様には叩▲リストからの
豊かな祝福が注がれるようにとお祈り申しあげます。

ヨハネと使途達の戦い、天の女王その真偽と誘惑。葬儀の向き合い方の参考に。

ヨハネの福音書朗読を、最後までご覧下さり、真に感謝申しあげます。

キリストに愛されて弟子。ヨハネは、殉教をしなかったただ1人の使徒です。

そのヨハネは、ローマの迫害のさなかで、、煮え立った油に投げ込まれて殉教するところでした。


しかしながら、奇蹟的が起きて命が助かります。 
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思い起こせば、ダニエル書にも王が作った金の像を礼拝しない3人を燃える炉の中に投げ込まれますが、生きる事が出来き、ネブカデネザル王がその奇跡を観て許した事が旧約聖書ダニエル書3章には詳しく記録されているように、ヨハネにも同様の奇跡が起きました。

その後、ヨハネは監獄の島、パトモス島に島流しになります。

彼は老後を生き、ローマ皇帝トラヤヌスの治世の中、西暦98年以降、エフェソスで亡くなったと言われておいます。
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その他の使途は悲しいことに、すべて殉教しました。

殉教した理由は、キリストを真の神と認めたくない人々いて、反感を買っただけでは無く命を狙われ殺されたからです。

キリストをまことの神と認めたくない理由には、彼らは信じていた女神の存在が在ります。

ローマ皇帝のネロは一番ひどいくクリスチャンを迫害にしましたね。
元々ローマのと云う名前は女神の興した町という処から付けられ、皇帝が神官の役目を担います。

皇帝は神官としての名誉と権力を手にして、神殿に奉納する物から、この世の利益を得ていたからです。
これに対して、ヨハネや使徒達はキリストが真の神であると布教し、

現世の利益よりは永遠の命を力説した結果。
キリストを信じる人々が増えてきた理由もあり、それによりキリスト以外を信じる人々が、彼らの信じるからこそ得ていた名誉、名声、既得権益を失ってきた事が想像できます。


それでも使徒達や当時のクリスチャン達は、キリストの復活を見聞きしており、永遠の命の価値を知り、強い天国、永遠の命への希望を確実し福音を語り続けて、たとえ迫害があっても棄教しなかったのです。

キリストの復活を観たり聞いりした人々には、強い確信と信仰から生み出された強い覚悟がありました。
ピリピ 1章21節には 聖書には次の言葉も記録されております。「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。」信仰への凄まじい決意表明。その要求とも取れるピリピの言葉ですね。
私たちが生きている現代日本では、コロシアムでの見世物。ライオン食べられるようなこと無いと思います。しかし中国などの国々では、今も信仰の迫害が行われおります。
私たちにも、この世の終わりが近づく時、覚悟ある信仰を突き付けられている気がします。

それでもヨハネはキリストから一番。愛された弟子との自覚があり

キリストが唯一の復活した神でありその生き証人としての自覚から間違った考えに対抗し、キリストを信じて生きるための重要性とその要点を書き記しました。

ヨハネには、使徒達が殉教し亡くなったニュースも伝えられていたことは想像できます。

ヨハネは使徒達を死に追いやった、天の女王の戦いの勝利を黙示録にも書いております。
(バビロンに君臨した女王として描かれ神の裁きを受けます。黙示録18:7〜21を参考にご覧下さい。)
この女神、歴史は古代メソポタミアからありました。

旧約聖書にも記録されている女神であり、天の女王として記されております。真の父なる神に逆らう存在ありです。

ヨハネが晩年住んだと言われるエペソともエフェソス言われた町、ここにはアルテミス女神の神殿があり、パウロもこの町で、宣教し福音を語りこの神殿に仕えた人々と民衆に信仰の戦いをしました。
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アルテミス女神は、世界の女神、天の女王と呼ばれておりました。

その様子は使徒行伝19章に詳しく記録されており、神殿に仕えていた人々と奉納する物を作っていた職人達が争う経過が書かれております。彼らの既得権益を失うからでした。

さて、アルテミス女神は豊穣の女神と知られ、沢山の乳房を持つ女神です。
この世の富と名誉を与え司る神として知られております。

この天の女王は、キリストの教えとは敵対しつつ、世界中に、今も形を変えて存在しております。

メソポタミア北部からシリア、パレスチナにかけて信仰されていた天候神アダドには勝利の女神アナトの兄にして夫。頭は人間だが下半身は動物の像もあります。神話に登場する神々は家族を持っている事が多いです。そんな神の家族間でも殺戮の争いがあるのも不思議です。

旧約聖書に登場する。カナンの土着信仰とは男神バール信仰、女神アシェラ信仰でした。

女神アシェラは勝利の女神アナトりなり、ギリシャの神アテナに変化したとも言われます。知恵、芸術、工芸、戦略を司るギリシア神話で女神、アテーナーとも呼ばれます。

ローマで信仰されていた女神はミネルウァと云います。詩、ポエム{歌とも云い。}・医学・知恵・商業・製織・工芸・魔術を司るローマ神話の女神。皇帝ネロがローマに火を付けて、歌(詩)を呼んだ話を聞いたことがありませんか?この歌は女神に捧げられた。ローマという名前の起こりは勝利の女神からとも云われております。

古代エジプトにもイシス女神があり農耕の神、豊穣神。偉大なる女魔法使い、献身的な母や妻として王座を守るものと云われておりました。子供を抱く女神として、子供を抱くマリアとして後世には変化したとも言われます。
メソポタミア、イラク。アブラハムが生まれた処です。
そこには月の女神の神殿があり、ウルは月の女神礼拝の本拠地で大きな神殿遺跡が残っております。

余談ですが、イラク駐在中に、私は幾つもの遺跡を観ることが出来ました。それらの遺跡には全能なる神からを預言受けた通りで荒廃しておます。

記憶がある方もおられるでしょう、フセイン大統領がイラクを治めておりました。私が見学したときに無かった、バビロン遺跡を立て直し彼の離宮を建てました。

彼はネブカデネザル王のように再びなりたいと願っていましたが、その後、予言通りに
失脚して殺され、彼が立てたバビロンの離宮も再び荒廃しました。

エレミア51章37節に書いて有るように。 「バビロンは石くれの山となり、ジャッカルの住みかとなり、恐怖、あざけりとなる。」この言葉が再び実行されました。

アブラハムがカナンに入る前に、父親との決別を神はアブラハムに言い渡します。父親テラは故郷カルデアのウルに居住していた時にあった月の女神の影響を色濃く受けていたのかも知れません。それで神はテラをアブラハムかた引き離したのでしょう。

またヤコブの二人の妻、ヤコブはその容姿から妹ラケルを愛しますが、姉のラケルを神は祝しました。ヤコブを通して、本当の神を知ったと思います。

けれど、ラケルはヤコブ聞いたはずのまことの神よりは偶像の神を愛していました。その結果。あまり子供に恵まれませんでした。
その原因は、ラケルは父の守り神テラフィム(小さな偶像=家族の守り神)を盗んだとあり(創世記31章19節)、しかも、ヤコブがカナンに帰るときに、蔵の下に隠し持っていた(創世記31章34節から35節)と書かれてあり、それを父がそれを探しているのを知っておりながら欺こうとしました。ここにもまことの神を知る事、神に信頼して献身する重要性を記され、祝福にも違いが出たことが記されております。

テラフィムは士師記 第一サムエル記 第二列王22章24節他にも記されております。テラフィムはヤコブの妻ラケルからカナンに持ち込まれたのだろうか?それ以前にから土着信仰として有ったのでしょう?

けれどテラフィムは聖書ではあまり良い意味で使われない。創造主,父なる神も嫌っていたことが分かります。

さて、インドにもカーリー女神があり、ヒンズー教で多くの手を持つシヴァ女神があります。
日本にもその形の影響を受けた観音信仰と色々の顔と手を持つ偶像が造られました。
カナンの女神アシェラが漢字にも変化して阿修羅像として日本に渡って来た気がします。

日本にも狐など動物の神やゾロアスター教、拝火教から火の神があり、天候の神。女神信仰が存続しております。前記の観音も女神ですし。太陽神礼拝があり、それは天照大神となります。その祭司が天皇家だと云われております。

豊穣と戦争に勝つ、家族が健康であること。作物が豊かに実ることは、古代からの人々には死活問題でした。

まことの創造主である神を求める前に、人間側の想像力で神を、創造主に取って代わる物、偶像を作り出しました。

何故だろうか!? サタンはエバに語りかけて『あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり・・。』創世記3章5節には、創造の父なる神に取って代わるとそそのかしました。

父なる神は御子を通して、エデン地球をアダムに管理することを望まれましたが、エバを信頼していたアダムをそそのかし、サタンはアダムにもその実を食べさせてしまいます。サタンは結果的に地上の支配権をエバとアダムを欺して奪い取りました。
サタンは常に地上の欲を満たす、名誉を与えると偽ります。目に見える偶像を拝ませて云います。
偶像の背後にはサタン悪霊がおります。

繰り返しますと、天地創造の父なる神は偶像の神々を嫌います。
出エジプト 20章3節から5節には、偶像に対する神の言葉が書かれてあります。

中でも出エジプト20章4節には次の言葉が書かれてあります。 『あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。』私が初めて行った教会の宣教師は
私は十字架の絵を描いたときに、きつく注意して下さいました。そして語った言葉が、
『あなたはこの絵を通しても祈ってはいけないし、あなたが書いた十字架を観た人がこの絵を通して祈らないように。』と云われました。その教会には十字架の飾りも無い教会でした。

私は14歳の幼な心にシッカリ刻みつけました。
それ以来、これくらいはいいだろう・・と曖昧にしないで偶像を避けるようになりました。

とは言うものの、日本人は葬儀の殆どが仏式ですね。
20歳を過ぎると、仕事先の葬儀に呼ばれる機会が増えました。
お悔やみのしるし、香典は届けました。仏壇の前に呼ばれたときは困りました。
けれど、座っても焼香はしないで、故人には祈らない礼を尽くす意味で軽く頭をさげて終わっていしました。
これは、何故かというと列王供5章18節からです。詳しくは後ほどに。

親族の場合は、クリスチャンだから出来ないとは最初から、言い訳の頭から云わないようにしました!クリスチャンだからを理由に断れません。
避ける意味で、「愛した人が浮気をしたら、いやでしょう!?。私は神様を愛しているので神様だけを拝みたいし、神様が浮気をしている僕を観たら悲しむから勘弁してください。」と理解を求めました。

それでも祭壇の前に呼ばれることがありました。祭壇前に行くと拝みはしないけれど、私が長く涙をながしている観て、「おまえはクリスチャンだからな〜と焼香しなくてもいいよ。」と時間をかけて理解を示してしてくれました。

父親の時は海外駐在中で葬儀には出られませんでした。悲しくて砂漠の中で一人泣き、神に叫びました。
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母親が洗礼を受けても兄は仏式ですると言い張りました。『これは俺{兄}のやり方で、母さんを送りたい!、これが終わったら、おまえのやり方で母さんを送ればいい。」と云いました。それ以上は言い張らず、母の遺骨を抱いて、アルツハイマー認知症から回復後、洗礼を授けて下さいました。新城教会、滝元明牧師先生のところに行き、遺骨に手を置いて下さり、母のために祝福の祈りをして頂きました。

何故?瀧元先生に!?私は富山県で、母の救いを祈りながら4年間。看病しました。
神様が癒やして下さり歩けるようにもなった途端。兄が居た愛知県に連れて行ったからです。
母からも「兄の顔を立てるように。」と涙ながらに頼まれましたかたです。毎月。母のところに通い新城教会に連れて行っておりました。
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滝元明先生、順先生には優しく柔軟に対応して下さいました。 ある日、母と一緒にセミナーを受けているとき、時間が長いので90歳を過ぎていた母親のことも心配して『お母さんが大変だから、早く帰りなさい。後ほど、セミナーのテープを送るから、」語って下さいました。
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さて、聖書には異邦人であったナアマン将軍が、思い皮膚病を癒やされた後で、イスラエルの創造主である神を信じます。しかし彼が仕えるアラム王は異教の宗教の神を信じており、ナアマン将軍は困りました。そこで、エリシャに相談、伺います。

 職務としてナアマン将軍は、「アラム王が礼拝するとき。王の身体を支えるために、彼は身をががめなくてはいけない。」と相談しました、心から礼拝しないことから、預言者エリシャは、彼ナアマン将軍に「安心して行きなさい。」と伝えました。粁鷁5章18節

神様がエリシャを通じてナアマン将軍に認可、許容された気がします。これは一つの神からの知恵だと思います。詳しくは、旧約聖書粁鷁5章17節〜19節をご覧下さい。
 
日頃。私たちが抱える周囲の偶像、葬儀の対応ですが、神様は色々なケースに対して。真剣に求める時に、個人対応で知恵や知識を聖霊を通して与えられます。キーワードは何時も愛と希望と信仰、そして神を待つ忍耐だと思います。

この言葉も再確認したいと思います。
私たちは神の言葉と栄光、そして福音と語り続けたいと思います。

 信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。汽謄皀 6:12
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皆様と一緒に神様から喜ばれる者へと成長したいですね。
最後までご覧下さり有難うございます。あなたご自身の信仰の戦いに、祝福がありますようにお祈り申しあげます。

乞願と誓願の祈りと断食は、
神様が喜んでくださるために有効で良いと思います。
誓願は叶ったときにこれこれをします、捧げます。と言う約束を神様と取り交わします。
断食は病気を祈るとき必要かと思います。

聖書にも書いてあるように。“ただし、この種 のものは、 祈りと断食によらなければ 出て行きませ ん”(マタイの福音17:21) 私が病気の癒しの依頼を受けたときは最小限度でも断食して祈ります。
神様は自分の言葉に責任を持って答えてたり、行ってくださいます。
私の行った断食は最長40日でした。それを聞いた人は、断食なんて必要ないと・・しかし、その人の癒やしの祈りが応えられていない人でした。
エゼキエル36:22 「私が行うのはあながたがたのためではなく、あなた方が行った諸国の民であなた方は汚した私の聖なる名のためである。

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神様はご自身のために約束を実現します。私たちが固く信じ、神キリストに期待して悔い改める時です。
悔い改めはキリストの十字架を通して与えられています。すべてキリストを信じる者の恵みとして、神様はご自身を癒す神だと言ってモーゼにご自身を明かされました。
そのお言葉は生きていて、私たちにも信じるなら適用されます。十字架の悔い改めと救いを明確に確信して信じて居る人々への神様から栄光の恵みです。神の栄光を第一に願う人に現れる恵みです。

私たちの祈り神に神様はご自身の約束。ご自身の言葉を実行してくださると思います。祈ったら必ず答えられると癒されると期待して信じ続けることが必要じゃないでしょうか?
神様にとって難病は無いはず。と私は思います。神様、ご自身がイエス神だと宣言なさった言葉の責任を持ってくださいます。

その答えがいつ来るかは分かりませんけど、期待して待つ間に、私たちがなすべき事、必要なこと、信仰を育てることなどを教えてくださると思います。
私は母の救いとアルツハイマー記憶喪失のために、癒やしより先に、神の栄光と救いを求めました。結果が分かり癒やされるまで4年、それから母は自分の足で歩けるようにもなり8ヶ月掛かりました。その後、洗礼を受け、私は教えていなかったのに、聖霊の満たしと異言も受けました。

神に期待することは重要です。私が14才でアーメンの意味も知らないのに、この神様、キリストに期待して治ったらいいなと思いながら
アーメンと言っただけなのに扁桃腺の手術後の高熱がでない癒やしを受けました。それは切っ掛けで教会に行き救われました。

信仰が強いか?弱いかを強調なさる人もおられますが、神は答える時期を見計らいます。
わざと遅れて返事なさった、癒やしに出掛けられた、そしてキリストが答えた例も聖書の中には書かれております。ラザロが死にかけているとの使いが来たときに神の栄光が現れるために遅れて行かれました。マリアの訴えに対して涙を流されたイエス様です。

あなたが観て自分より信仰が無いとか、弱いとかを責めないで下さい。むしろ
神への信頼と期待が高まるようにと、あなたがその友人、隣人のために涙を持ってとりなして祈ってあげて下さいませんか!? 神が定められたときまで・・その時には答えられたり、癒やされる神様です。ご自身の言葉の責任を取って下さるイエス様ですから・・。

SNSで、「祈ってください、」「はい。祈ります。」は単なる挨拶ではなく、私たちの信仰も試されると思います。はい祈りますと受け取った場合は、祈りますといった人は最後まで責任持って、癒しの結果が分かるまで祈る必要が、私たちにはあると思います。

神に期待する人に対して報いを与えられます。私たちの決して人間的な尺度ではありません。人間的な尺度で癒やしを否定しないで下さい。

神が子供を与えると言われたのに、アブラハムにイシュマエル!
それは否定なさった神、そしてイサクが生まれるまで25年掛かりました。生まれて安心!?そのイサクを犠牲として捧げろと言われた神です。 死からも蘇ると信じたアブラハム?それに報いを与えられた神の計画と私たちの態度を見極められます。けれど彼の行動、行いより先に認められたのは、アブラハムが何か素晴らしいことをしたからでもありませんね。単純に、神が語られた言葉を信じたからでした。

創世記15:5 〜6 『そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。』と聖書に書いて有ります。 先にアブラハムは子供が居ないことを神に訴えた現実があります。
けれど、その現実より未来の神の言葉の約束を単純に行いで無く信じたので、神はアブラハムを義とされました。

神の栄光を求める人に、神の考え方で必ず答えられます。私たちには死に到るまでの忠実さを求めておられる神様 父なる神です。今はその忠実さに欠けていると自覚しても大丈夫です。聖霊が導き示して下さいます。詩篇23の思い出して下さい。『あなたの鞭と杖が慰めです。』と告白する者に聖霊様が導き案内し歩むべき道、方向を示してくださいます。

私がよく癒しがあると主張すると反対者がいます。その反対者の多くの意見は信仰がないことを責められそうと、、。だから癒されないと勘違いしてしまう人が多い気がします。私たちの最大の癒しは永遠の命です。この世にいる限り病はついてまわります。何故でしょうか?それは老化があるからです。人の齢は120歳までと神様が決めておられます。
それまで長生きして神の栄光を少しでも表したいと思う人に健康を与えられる気がします。

神様の栄光を、神様の考え方を優先する様に第一に願わないで、自分の都合で様々な願いをする人に、神様はどんな気持ちだろうかとふと考えてしまう。
それでも神様はご自身の栄光のために、私たちの気づきを与えてくださる気がします。それら気づきが私にとっては癒しであり信仰の進め方や主イエス、父なる神、聖霊の捉え方、見つめ方した。神は必ず、私たちにどんなことがあっても省みて癒されて、ご自身の言葉の責任をご自身で取られ果たされて、その栄光を表されると私は信じております。


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3月3日 ひな祭りですね。ひな祭りの人形に生まれた子供の災いを身代わりになってもらい川に流す習慣がありました。今は雛人形自体が高級品となって川に流す事は無いけれど、紙に書いた雛人形を流す習慣が今でもあるようです。

さて、1968年、昭和38年の大雪のひな祭りの日に私は洗礼を受けました。14歳でした。時の流れはあっという間です。
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教会に行って2回目にイザヤ書53章の朗読があり、その言葉から意味を知りました。
私たちの災いや苦しみや病をキリストが背負ってくださると言う事を知り、納得出来ました。


イザヤ書53章には以下の言葉が書かれてあります。

53章1〜12節 * 主とは神のこと

1、私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか。

2 彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。

 53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

 53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

 53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

 53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

 53:7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。

 53:8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。

 53:9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。

 53:10 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。

 53:11 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。

 53: それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。



14歳だった私は朗読なされた意味の全てをその場で全部理解は出来ませんでしたけど、キリストは人を知らず生まれ十字架にかかった事は知っていましたが、イエス様の生涯が生まれる前の紀元前701-681年の間に書かれその通りになったことに驚きました。

またそんなに簡単にイザヤ書の言葉が納得できたこと言いますと、「打たれた傷で癒される。」と言う言葉から納得できたのです。この教会に行こうと思い立った理由の中には、私自身の扁桃腺の癒しを体験していたからです。この教会に行く半年前ほどに、私は扁桃腺の手術のため2人部屋に入院しておりました。
隣のベッドの人がラジオを聞いており「うるさいなぁ〜」と思いつつも、ラジオで語られている福音放送に少し耳を傾けてしまいました。
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外国人のたどたどしい日本語で、「病気で入院している人がイエス・キリストによって癒されるように。そう思う人はアーメンと言いましょう!」のアナウンスに耳を傾けてしまい、
キリストに祈る意味も良く理解してはいませんでしたが、本当に神様がおられるなら、治りなりたいと、アーメンの意味もわからず、この神様にお任せしようと決心して・・「アーメン!」言った途端に頭からつま先まで何か?電気が流れるようス〜ッとスキャンMRIされるような感覚に襲われて感動感と温かさ包まれ、なぜか涙が溢れてしまったのです。

ちょうどその日は私が手術した当日だったので看護師が何度も検温をしに来て首をかしげて「不思議ねー熱が出ないわ!」と言いながら何度も何度も検温を繰り返しに私のベッドの間を往復していました。
後で知った事は手術後には高熱が出るらしいのですが、一切。高熱が出ていなかったと後々に、看護師の方から伺いました。手術の傷跡も一般よりも早く治りました。


そのことが心にあってキリストのことを知りたいなぁと思い始めて、たまたま同級生にそんな話をすると、「それならあそこに教会がある。俺もそこの教会に何回か行ったことあるから一緒に行こうか。」と教えて誘ってくれたのです。そして初めての教会に行った日がちょうどクリスマスの日でした。クリスマスの御祝いの時、教会って楽しそうだなーと思いました。


話を戻して、先ほどのイザヤ53章から、預言は驚きでした。キリストの生まれ、その生涯が書かれた通りにそれは実現したことに、驚きを隠せませんでした!!キリストが十字架に掛かった後に蘇った、復活したことを知り驚きました。

14才でしたが、キリストは人知れず家畜小屋で生まれたことと十字架で死んだことくらい知っておりました。
予言通りになり。人の苦しみや病を身代わりになったんだと前記のイザヤ書を読み上げた後、詳しく教えて下さり理解しましたし、私を癒やされた信じようと思いました。

何があってもこの神様、キリストから離れないようにしようと決心しました。

幼かった私は罪に対する自覚はあまりなかったと思います。ただイエス・キリストが、父なる神が真の神 創造主であることを信じることができました。

小さく祈った印を求めたとき、クリスマスの星のように流れ星が観たいと呟いた途端に。それが目の前にあったからです。そして、この神、キリストを一生涯 礼拝していこうと心に決めました。

両親は仏教を信じていてその様子を見ていてあまり仏と言う存在に疑いを抱いていたからだと思います。なぜなら仏を信じている両親を見ていて苦労ばかりしていたから良いことないと幼心に思っていました。

成長するに従っていろいろ問題を抱えてきました。そして罪の意味も成長するに従ってわかってきてそれを神様に委ね許しを乞うこともできるようになりました。
妻の癌、その死を経験し、なぜ先に死んだのかと思い悩みました。神様はすぐには回答は出しませんが、それ以上の大きな慰めを私に与えてくださいました。


また大きな奇跡、母のアルツハイマー記憶喪失認知症からも神は癒してくださいました。医者も奇跡だと語り、母は自分の口で告白して洗礼と聖霊(異言も)を受けました。

そのたびにキリストに救われて導かれました。キリストはすべての苦しみと問題や病を背負って取り去ってくださったからです。

前期のひな祭りの言われ以上に、キリストの身代わり背負ってくださる事は真実です。
紙に書かれた雛人形よりも、木でも石でも彫刻された物も沢山ありますが、それらに神々よりも確実に救いを与えます。確実に癒してくださいます。もしあなたが心から信じきるなら、。

完全に信じきれなくても、少しの不信仰でも、キリストの身代わり、罪からの解放を信じる事が出来るなら、神は私たちを見捨てずに、導いて私たちの思いと信仰を変えて下さいます。

それら以上に、先に挙げた彫刻された神々にはできなかった復活がキリストにはあるのです。キリストこそが真の神です。
私たちの苦しみや悲しみの元になっている罪 怒り 憎しみ等をイエス・キリスが身代わりとなって背負ってくださるのです。

ひな祭りと流しびな、復活の唯一の神、イエスキリストは流し雛より確実に、全ての災いや苦しみ、病を身代わりになり取り去ります。更に重要な事が有ります。

私たちが真の神を、知らず身勝手な生活、神様の思いから外れた的外れなこと。キリストの教えではその的外れな行動や考え方を罪といいます。十字架の死が、私たちの身代わりで、その代価としての死を、十字架の死が身代わりだと信じるとき、キリストがすべて背負います。
十字架で、私たちの身代わりに死んでくださって罪を許すだけでは無く、新しい命で生きるようにリセットできるように復活してくださいました。
キリストの十字架の死は単なる死ではなくて、私たち、あなたの為です。

私は今も父なる神、主イエスキリスト、聖霊を心から賛美し感謝します。この神様から何があっても、例え大きな過ちを犯したとしてもキリストから離れないでいようと決心しております。悔い改めるとき、告白して許しを求める時に、神はキリストの十字架を通して許して下さるからです。

神から離れない決心には、詩篇第1のお言葉があるからです。
詩篇1:2 まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
 1:3 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。

栄えるとは経済的なこと、名声的な意味より心の豊かさ、キリストに在る救いだと私は思います。

キリストを信じてもたらされる霊と魂の救い 心の平安があなたにもありますように
お祈りします。



私は書いているブログは、ライブドアー ブログです。

アイホーンやパソコンからログインしないで検索すると 安全ではありませんとURLの欄に表示されておりました。
最初は余り気にしておりませんでした。しかしながら安全性に問題=秘密、個人情報の漏洩につながると知って変更を仕様と、ライブドアーブログに問い合わせをしました。
暫くのあいだは、 順次対応しますとの返事でした。

ライブドアーはラインもですが、日本発祥です。しかし、確か?韓国系のネットの会社に買収されました。
それで切り替えの対応 ヘルプが遅いのかと思いました。
この現在のブログ以外に 私はキリストの関係関係のライブドアーブログを1本と料理と趣味の着物のブログ書いております。

その他、Googleのブロガーがもあります。
何もしないうちに、Googleの方は先頭のURLが自動的に切り替わり、安全ではありませんと表示されておりません。

するとやはり、検索順位と安全性が問われるだろうと、このライブドアーブログのURL変更が気になりました。そして手こずりました。原因は簡単。使用してはいけない記号文字で新規のブログ専用URLを書いて使用としていたことが判明しました。
加えてhttpsに変更できるように定められていたライブドアーブログの時が来ました。


つまり「http」より「https」の方がセキュリティ的に安全だという事です。
「https」は検索順位にも優位だという事です。

変更可能なときが来ても、中々上手くいきませんでした。 何度かヘルプを通じて問い合わせました。原因もようやく判りました。
元々、個人情報を盗む気持ちも、第三者には譲渡する気持ちはさらさら無いのですが、自分が検索してさえも安全ではありませんと表示される冒頭URLは嫌ですね。
カウンセリングを必要とする、求める方にはメールアドレスや電話番号をお伺いすることはありますが、第三者には個人情報は一切 漏らしませんからご安心下さい。
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そんな理由で、ブログも余り更新しておりませんでしたが、
「https」に変更が出来ました。 更新していない間にも訪問して下さった皆様方に、心からの御礼を申しあげます。
またコツコツ更新をしていきますのでどうぞ、温かく見守り下さい。謹んでお願いいたします。

九州で大雨の大災害発生。
また、ある人は病で病で苦しんでいる。私たちに襲ってくる突然の不幸。私たちクリスチャンはいかに自分の心を整えるべきだろうか?

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大災害、大洪水で人類が滅びことがあります。そしてノアとその子供たちだけが生き残った後、その光景があまりにもひどかった!心を痛めた神様は固く約束なさいました。
「このような洪水人を滅ぼさない」と約束しました。
だけど、近年の日本は温暖化?異常気象が続いて歴史を塗り替えています。

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この神様がノアに約束を踏まえて考えると、大洪水で日本や世界が一斉に滅びたわけでは無い事は明らかです。1部限定な地域に洪水が起きているわけですから。
なので、神が与えた洪水では有りません!

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だとすれば、どのように私たちは思えば良いのだろうか!?心を定め難く迷いが生じます。

洪水や家族の死に直面した人の心中は計り知れず悲しみは深いのです。「これは試練ですきっと、乗り越えられます。」と励ましの言葉もときには、直面した人には、さらに傷を深めることがになりかねません。

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災い、不幸、重病、そして死に直面した時。私たちにとって重要な事は、クリスチャンとしてのアイデンティティー{自己の存在価値観}ではないでしょうか!?

その存在価値は大変すごいものです。父なる神は、神子の命を犠牲にしてまでも、父親に反抗し出て行ったあの放蕩息子のたとえのように、私たち1人々を、我が子として迎え入れる程に溺愛してくださいます。

溺愛しているの(されているはずなのに)に、なぜこんなことが起きるんだろうか?と思うかも知れませんね。

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あなたが信頼し愛している友人がいたとします。いや友人よりも愛している人、我が子に置き換えてみるといかがでしょうか?

我が子が絶対に私を裏切らないと言う強い確信を父母は持っています。そんな中で、隣人から嘘の話が伝わります。「ねえ、ちょっと聞いてよ。あなたの息子(娘)さん、自分の親のことをひどいと話していたよ!私の親はいつも懲らしめてひどいことをするのだ」と隣人から言われたとしましょう。
その隣人は嘘をついているのです。

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我が子は決してそのようなことを言わないと信じています。しかし隣人からの嘘の攻撃があまりにも強く、親は決してそのようなことを言わない息子(娘)だと理解していて隣人には 「君はそれは嘘じゃないか!」と答えますが、隣人は〈そこまで言うならそれを一体どうしたら証明できるんだ〉と言われてしまいます。

困ったあなたは、親は溺愛しているあまりそれを証明したくなったとしましょう。その隣人に「ちょっと嘘の情報なら、わざと流して 私への愛を確かめてもいいですよ」と許可してしまいます。

調子に乗った隣人は親と子供の愛を引き裂こうと試して見ようと仕向けてしまいます。
不幸や災い、重病を生み出すように生活環境を変えさせようと仕向けてしまいます。

しばらく忍耐し様子を見ていましたが、溺愛が勝って『もうその辺でよくわかっただろう。私の子供は決して親を裏切らないから、彼に間違った言葉を言ったり、間違った道に進んでも、私は必ず引き戻すから!』と隣人に試みる、試練を下す事から引き下がるように伝えました。

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上記の例え話は、聖書ヨブ記を身近に置き換えたものです。神は私たちを溺愛するあまり、時として私たちをさらに深い神様の愛の深みに導くことをなさるような気がします。

最後まで神様から離れず、希望を持つものは、最後に神様からの大きな祝福、永遠の命を確立いたします。それは神の子キリストを信じることから、離れないことから、神の愛を深く味わい知ります。

神様に近づこうとする時、サタン妨害がありますがありますが、へこたれず、神に近づこうとする時 救いの手があり今まで見えなかった、目に入らなかったものが見えてくる聖霊の導き、神の世界が広がっていきます。

神子の命を犠牲にしてまでも、私たちを溺愛されている父なる神が居られる事を再認識しましょう。これがクリスチャンのアイデンティティー(存在認識)の土台なのです。
例えば、百合の花のカサブランカ(その他の花々にも)近寄って拡大していくと新しい形や、細胞までが見えるようになるわけですから、絶対何があろうとも父なる神から離れずついていきましょう。

新たに大きな祝福があるようにお祈りします。

神からの祈りの答えや癒しを受ける時に必要な事は何だろうか?

「それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。」ローマ 14:10

ネット上ではアメリカのメがチャーチの牧師のことをとかく悪く言う人が居られます。{その様な人は、日本の大きな教会牧師 そうで無くても非難する傾向のような気がします。}
YOUTUBEでも見かけます。私はその全てを支持も不支持もなく 特別な感情から肯定も否定していません。実際にお会いし話を直接聞いていないからです。
直接聞くとその場であれこれ質問しその人の考え方を吟味することができます。ネット上では直接の質問会話は難しくそのために、どんな人に対しても素晴らしい牧師 教会と言われても反対派と賛成派が必ずと言っていいほどおられます・。

実際に そんなメガチャーチの牧師に面会して、何故 そのようにメッセージをなさるのか(己の信仰のズレを直接話し合う)を 彼らの基本的な考え方を直接。聞いておりませんのでなんとも言えません。

誰かを非難する場合は、直接。会って話をしたり確かめた方が良い気がします。ネット上で流れる。YouTubeを断片的に見ての少しでも自分の考えや意見と違ったら、直ぐの 非難は避けたが良い気がします。
物事や意見を冷静に見て批判=良いところと悪いところを見極めた方が良いと思いませんか。「兄弟(信仰を同じくする人)を侮る=批判してはならないとパウロもおしえているんですね。」(ローマ14:10) 

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一時的に、リバイバルだと人が集まっても、時が来たら去って行く人がいます。なぜ去っていくのでしょうか? その教会の主任牧師に対する信頼感が、そこに集っている教会のメンバーとの信頼感が失われていくからだと思います。
己、自分自身を100%いつまでも一致するには執り成しが必要。少しでも食い違ってきたら、自分が絶対だと思わずに冷静に祈る事。そして、あなたどる=非難ばかりではなく、創造的 建設的な批判する事。お互い信頼感を深める話し合いを、批判的思考力に欠けて意見交換を怠るかではないかなぁ〜。?

大きな教会、立派な牧師と言われる人、その人、(本人から)自身から集まる人々に対して要求しない限り、アイドル偶像化はよくないと思います。多くの場合はその教会の信徒達が、その牧師に対しての感情からアイドル的、偶像化を始めるのではないでしょうか?
どんな場合でも 聖霊 イエス・キリスト 父なる神が 第1である事から離れてはいけないと思います。

又、癒やされたと言っても、常に神に栄光を返すことを忘れたら、受けた癒やしも消えます。
癒やしの伝道者 ベニ・ヒン師も色々言われています{肯定も否定をする人々もいるけれど}が、献金問題や離婚問題、祈られて倒れる事かな しかし、彼の話したメッセージの良い部分、聖書と照らし合わせた部分を納得した所を吸収して、癒やしのミニストリーに活かしています。

いつの場合も献金は、心から捧げたくなった人が後悔して文句を言う傾向!?後悔するならしない方が喜ばれるんじゃないの?神様は・・。
マラキ書 3:8
彼らは、「カイザルのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「それなら、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」マタイ 22:21  

地上の全ての産物は神からの恵みです。一時的に所有したとしても神の物ですね。人に捧げたの{関心を買おうと捧げた献金}では無く、神に捧げたので有ればアレコレ文句は控えませんか?


離婚問題、人生の失敗など。私たちの長い人生の全てを見て、ご存じ。だから導かれる神様だからね。私たちの数年間は、神に数分間の時間経過に過ぎないし。回復を受けるチャンスを与えられる。

ペテロも裏切ったね。だけど回復したよね! 隣人には執り成しの祈りを 私たちに対して神が求めておられます。

聖書の中にもパウロが語った事さえも、事実かと調べた人のことが書かれています。
「ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。」使途 17:11

上記の言葉のように、自分自身が話すとき、誰かののメッセージ聞いたとしても、再度 聖書を調べ、ヤバい!? 間違い?と思えば 執り成しの祈りをしてから、御心がお互いの身に上に通るようにに祈ります。

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何故かと申しますと、ヨブ記に登場する3人の賢者と僕、この4人は、ヨブを否定し過ぎて、神の怒りを買いましたので、私は、自分自身を注意深く 隣人には否定と肯定は避けたいだけで、聖書を見て確信していること 聖霊の導きから体験したことだけを話します。

既にご存知でしょうが、ヨブは最後に病気も癒され失った2倍の祝福を受けました。
神様から言い渡された条件にヨブ自身が応じたからです。 3人の賢者としもべ、この4人の為に、口先だけではなく祭壇を彼らの持ってきた生け贄も捧げて、きっちりと神様の前に許しの執り成しを祈ったからです。

「テマン人エリファズと、シュアハ人ビルダデと、ナアマ人ツォファルが行って、主の彼らに命じたようにすると、主はヨブの祈りを受け入れられた。
ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブの繁栄を元どおりにされた。主はヨブの所有物もすべて二倍に増された。」ヨブ 42:9 ~42:10

終わりに、主の祈りの中にある、2つのポイント。、父なる神の栄光を慕い求め、我が身に表されるようにと追い求めませんか?十字架の救いを信じた瞬間に、罪は完全に許されたことを認識して、自分自身をいつまでも責めないで神に感謝と讃美を捧げませんか?

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