google-site-verification: google8bec6e3f3bda2812.html

心の風景、愛の聖書、福音と癒やしと日常から。ミカエル小栗

ミカエル小栗がつづる心の風景。聖書の福音は愛と救いと癒やし。日常の出来事の心の雑記帳風景ブログです。聖書に基づくカウセリング、祝福と救いと心の癒やしを祈ります。あなたの教会のメッセージ奉仕もします。ご依頼はメールにて!

カテゴリ: 聖書から

父、神子、聖霊以外に心を寄せて 

心の拠り所にすり替えるなら、それはすべて神の目から見たら偶像になります。
神からの目と人の目は{人間が良いと思うこと。「目に麗しく、賢くすると言うその木は(実)いかにも好ましかった。」創世記3:6 }はある時点では微妙に違ってきます。
神の創造はすべてうるわしく整っていました。見た目の麗しさと実心との相違もあります。人間的に良い行い、善行だけでは救われない。ロザリオの祈りなどの回数 十字架を飾る。とりなし手が祈りから、自分は祈らなくてもいい。
でもちょっと待ってね。
 「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」ヨハネ14:14 
「その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。」 ヨハネ16:26
キリストを通して祈る、それは直接 祈れる特権をキリストのお名前から付与されているのです。
01edbc2a-s(0) (0)

それでも聖人を通して祈りたい人が居ます。
聖人に祈っても主には直接、祈らないなどの違いもあります。
これは神の目{御心}にかなっているかを考えます。
違和感を感じたら御心に添えるよう聖霊の助けを求めて、その機会、是正を出来るチャンスを探し誠心誠意改めることができるように聖霊を求めます。

聖人を通さずに直接 祈れる幸せを味わいたいです。神の栄光を知り、崇めるために。

クリスチャンが抱くキリストの美しい名は「神は愛」

何でも許されるイメージ!しかし真実は差し迫る事から救い出す。

けれど最後の審判から回避する為の期間限定の憐れみ深い愛だと思う!
その回避と憐みの象徴と証が十字架です。
差し迫ることは、私たち一人一人が迎える死であり、再臨と主イエスの最後の審判です。
神は愛だと思いすぎると愛=甘えがキリスト教会内で起きてはいけない気がします。
01715899f2a51c9875a749e8f31897636814b00591(0) (0)

気を付けないといけないことが有ります。・・
「神は愛なり」に隠された 神の厳しい義があります。
神の義に反すること、神が望ましく思っておられ無い事から離れられるように助け導く聖霊をお迎えします。

「もし御心なら杯を取り除いて下さい。」三日間の苦しみに我が身を重ねて!
先日の岡山からのドライブで帰宅後、何故か?急に背中が痛くて激痛!痛くて痛くて、立っても座っても寝ても痛くて睡眠不足が続きました。

病院に行こうか?深夜に救急車はあまり呼びたくないし、。ベッドに横たわっても背骨が痛くて寝れませんでした。
そういえば今週は受難週だなぁ〜 キリストの十字架の苦しみと復活までの三日間を思いめぐらしながら激痛に耐えて夜中じゅう泣きながら叫んで祈りました。
打たれた傷によって癒されるんだと固く信じて祈り続けました。
すると3日後にすっきりと痛みが切れて、朝から動けるようになり背骨の激痛が全くなく嘘見たいです。 そんなわけで、三宮まで買い物に行けました。
キリストご自身の語った言葉には偽りはなく、キリストの義、言葉の正しさによって癒されたことを再認識します。エゼキエル36章22節から26節
これが心臓発作とか脳梗塞のような状態であれば深夜でも救急車で病院に行ったかもしれませんが、腰痛とか背骨の痛みだったら多少我慢して祈っていても大丈夫だと思ったか判断です。
01c25aaccf836430cf56c5bb5779520878ea749589

イエス様がイチジクの木を見つけて食べたいと思われた。けれど季節外れで、その実はなかったのですが、イエス様はちょっとご立腹。その木に向かって「お前の味は誰も食べないようになる!」と言われたら、翌日まで枯れてしまったイチジクの木です。
ありえないこともイエス様のお名前と信じる言葉から様々なこともできるようになりますね。
それにはやはり何度かの失敗と訓練とイエス様の言葉を固く信じることが必要かと思います。 弟子達もイエス様に伺って、『どうしたら出来るようになりますか?』と聞いておりますね。
01d584941b7522f2fc830cd9a39d07d10465718f56

誰かが言ったけど、100%の信仰ないと救われないと言い切る人がいます。
逆に100%信じなくても救われると言う人がいます。これを言う方はイエス様は愛だからが理由として上げます。
どちらを選択するかで微妙な違いが生まれる気がします。
前者は聖書の教えに忠実でありたい。努力してもそれに近づきたいと言う強い願いを感じませんか?
後者は、自分の考えの方を優先しがちで妥協 自分の考え方の妥協点を聖書の言葉にすり合わせていく事が多い気がしませんか?
ただ 救いに関する信仰と信仰の行いは別だと私は思います。
誰でも十字架の救い=イエス様の身代わりが自分のためだったと告白し信じるだけで救われます。よい例がキリストと一緒に十字架にかけられた罪人が1人、告白して救われました。彼が何%信じたかも書いて有りませんが・・。あの十字架の上でのキリストの状況下では100%では無いだろうか?
もう1人は告白されず、その後、天国でどのようになったかは書かれてありません。
その他の信仰の行いは日々の訓練からですね。またキリストや12弟子の生き方 信仰姿勢を目指す希望と訓練、信仰の高嶺を目指すことから生まれてくる生き方から生まれでる力があります。
それは聖霊の導きと助け=介助が、周囲の人からの助けあるからだと思います。
01e1603feae9336c7e2f3bef134066bd418bccf3d6

イチジクの木が枯れたと弟子たちの質問に答えたイエス様の言葉をもう一度再認識している今朝の私です。
マルコ11:23 マタイ17:21
イエス様がゲッセマネの園で言われた言葉があります。「御心ならこの杯を取り除いてください。」
01f6517d91f1bbe2bec87cd6a14ae9016b2a671320

これは父なら神がイエス様に与えた使命{キリストへの固有の使命}でした。
なのでイエス様の杯は取らなかった父なる神なので、私たちが救われました。
また癒されました。マタイ26:39

文脈の流れからと読み取らないで、この言葉だけを取り上げると私たち日本人が謙遜や遠慮がちになりやすくないですか?
あまり強い願いの祈りを要求しないようになりがちです。御心だと諦める理由にしがちな私たちはいませんか? 私はそんな気がしてなりません!?
御心なら癒されなくても良いと言う逃げ口上にもなりかねない気がします。どのように受け取るかは、私たち側の問題だけど、。父なる神はハッキリと癒やす神だと自己紹介しておられます。
私たちの生活から生まれたばかりの赤ちゃんで信仰力が初めからありません。
しかし、いつまでも赤ちゃんの状態では神様はどのように思われるだろうか?
神にそそがれる愛を体験し味わわないと成長できないのかもしれません。
神様を100%信じれるようになるように、神様から訓練されて、自ら進んで訓練して成長していくのです。

適当な自分の考え方の妥協点で折り合いをつけて信仰を成長させることをやめるのは悲しいと神様は考えられるのではないかなぁ〜?
人の予想や仮説ではなく、聖書に土台とした言葉から基づいて生み出された神様への愛は強く成長していくのです。

天国に行った時によくやったと誰でも言われたいと思いませんか?
神様からたくさんのタレントを与えられている、任せられている私たちです。
010ed4a1592360a254a53e4f4c7382e68fdcbabe51


このブログはYOUTUBEにアップロードしました
動画を文字でも読めるようにと思い文字起こしををしました。以下がその通りです。

私は、小栗龍男と申します。ブログやYOUTUBEでは、ミカエル小栗。チャーチ・オブ・エルシャダイと名乗っております。

今。私がまとっている物はマントです。若い頃に駐在していたアルジェリアで購入。これよりもっと実用的な物を羊飼いが着ております。

私は民族衣装が好きで、駐在してきた国々の民族衣装を記念に買っておりました。
でも1番好きなのは日本の着物です。
     
お気付きでしょうが、神戸六甲山牧場からお話をさせて頂いております。
何故かと申しますと、詩篇23編と私たちと云うテーマでお話をしたいと思います。


多くの方々が、好きだ言われる詩篇23編です。
そして、私がこの詩篇に、自分を重ねた証しからですが、後半には後編はヘブル語の詩篇23の単語から思い浮かべる事柄をお話しさせて頂きます。
私はこの詩篇を身近に思えたのは、私自身が癌の疑い、宣告されたときです。神学校を卒業後、長期の断食を行って祈り求めた結果。神戸で開拓を始めます。

自活伝道ですので、私の仕事も住まいも見つかり、サーこれからと夢を持って開拓伝道を始めた矢先でした。仕事中に、私は激しい腹痛に襲われて、身動きできなくなります。

仕事を中断して、救急車で入院、検査をすると、先ず胆石があり、MRIでは胆管が膨れ上がり腹水溜まりかけておりました。医師に、「私には身近な家族が居ませんので、もし癌などがあるならば覚悟しないといけないのでありのまま告げて下さい。お願いします。」と伝えると医師は深刻な表情で、「癌の疑いは否めません!」と答えです。

そして、「今あなたは体力が落ちているので、直ぐには、手術は出来ません。ガンマーカーの検査結果は高い。暫く様子を見ましょう。」との返事を聞きます。
直面した現実に、祈る元気も失いました。私の妻も癌で亡くしているので、医師からの言葉は重く、私は死を告げられた気持ちになりました。そして、私は先が見えない不安な心に変わって仕舞いました。

聖書では、「明日のことを思い患うな。」と言う言葉がありますが、突きつけられた死という現実に恐れに覆われて祈る気力を失います。
神様が母親のアルツハイマー記憶喪失から癒やされていたことも忘れてしまうほどでした。
折角、ある方の支援で神学校を卒業し今から夢を持って開拓と矢先に、なんてことだ!と

「これが御心ならば、受け容れるしか有りませんが、デモ神様!あなたの栄光を現す私になりたい。』ですと・・あの方が、折角神学校に行かせて下さったのに・・と小さな思い、つぶやきとも言えます。

言葉というか祈りを忘れてしまうほど私は落ち込みました。失望感に覆われておりました。

呆然と数日を過ごすと、次の聖書の言葉を浮かびます。

「ふたり、三人が心を合わせて祈るとき聖霊が臨在して下さる。」という約束の言葉でした。

それは、マタイ18章20節に書かれてある言葉ですね。それで、思いつく限りの牧師、教会、友人クリスチャン達に事情を説明、多くの方々が祈って頂きました。

すると気持ちが落ち着く始めてふとある風景が心に浮かびます。

私の目の前には荒れ地の砂漠の谷間です。でもよく見ると、その先には緑の牧場が微かに見える風景でした。これは何だろうか?と思案し始めると、不思議に詩篇23編の言葉が重なりました。

そうだ!今は癌かも知れないけれど、母の時のように、神様の栄光を第一に求めその結果がどの様であれ、神様に従おうと決心が出来きました。

それも、神の御心の許しの中での病気であるなら、差し迫った不平不満、不安を捨てられるように願い祈りました。

告白できたのは、「私は今。死の谷間に居ますが、この先を通り過ぎたら、必ず緑の牧場、神様の居ることをに行きます。」と言う決意を告白しました。

逆説にこれは、ヨブ記の1章5節からでした。ヨブは息子達に対して余分な不安を捨てないで保っていたからです。余計は心配は避けよう!サタンが心の隙間に入り悪さをするという警戒心からです。

私からの祈りの要請を聞いた人たちが、次第に見舞いに来て下さるようになりました。
自活のために働き始めたばかりで現実的な心配がありました。それは入院費、手術の費用です。
手術の結果承諾とにも支払いにも保証人が要ります。現金が無くて困り果てました。

その間、医師に呼ばれ繰り返される検査が続きました。検査を終えて、ベッドに横たわろうとしたら、枕の下に封筒がありました。その中には現金が同封されております。

30万を超える金額が同封されて、相部屋の方に伺うと、「私も検査に呼ばれていたので、どなたが来られたのかは分かりませんね」という返事でした。
現在に到っても、その献金が誰からだったのか・分かりません。

手術後、麻酔が次第に切れていく夜に誰かが私の手を握り励まして下さいました。
それは無言ですが温かい手でした。

麻酔が覚めてから、看護師に、「誰か私の手を握り励まして下さった方を見かけませんでしたか?」と伺うと見かけませんね。「では、看護師さんですか?」『私たち看護師は、そのような個人的な対応はしませんから〜。』

では誰が・・? いまだに謎です。

麻酔が覚めながら意識がもうろうとしていましたが、あの手に触れられた、あの手の温かさ、今も感覚は忘れられません。

その後、あれほど腹水が有ったのですが、癌は消えていました。
微妙ですが、ガンマーカーの反応は残っていたそうです。胆石除去の場合は10日ほどで多くは退院するらしいのですが、医師からは暫く様子を見ましょうと言われ、汽月ほど入院延長になりました。 徐々にですが、あの癌反応 血液検査からも消えて行きました。
気を緩めずに、再発しないように5年間は祈り続けました。

さかのぼって、献身神学校に行けるようになったのは、あるクリスチャンが、学費のすべてをお一人で支援した下さいました。
その前にも、既にお話ししましたが、母のアルツハイマーからの回復、癒やしを神様が与えて下さって下さいました。

90年代の出来事です。

私は海外駐在から帰国して地元で小さなレストランを開業しました。
少年時代からの夢を実現したのですね。

順調に滑る出しました矢先に、母の発病でした。店の経営と管理、母の看病で疲れ始めて時に、兄弟からは、「このままではおまえが潰れる。母さんは病院にまかせろ!?」と言われますが、母の救いが、告白が未だでした。
母の様子を見たり、医師からの言葉で絶望的な母でした。
それでも、私の声に反応する日も稀に有りましたのです。

声の反応と言っても、誰が話しかけているかは分からず、「ご飯食べよう!」というと口を開ける仕草をしました。でも飲み込む事はしません。吐き出します。

栄養補給の管や点滴を打たれるようになり益々、ひどい状態になりました。
医師の治療は絶望的でしたが、人格が消えたようでも、霊は生きているから救いを求めるように祈りました。母自身の口で、神の栄光を讃えられるようになるように祈り求めました。

癒やしよりは、先に、、第一に神の栄光の表れ、救いを求めました。

その間に、わたしは店と病院の往復で疲れて倒れてしまいました。
折角の夢だったレストランを閉鎖することになりました。

当時。私が所属していた教会では、癒やしのことは余り語られず、何故?聖書に書いて有るのに、不思議なギャップがありました。
それで母の回復を求めて、キリスト書店にある信仰書から始めて模索し、癒やしのセミナーにも参加しました。
そこで観た癒やしの様子から、牧師には頼らず自分で祈って見ようと

聖書。マタイ17:21に書いて有るように断食をしました。

「ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません。」と書かれて有ったからです。

これで癒やされないなら、諦めるしか無いけれど「癒やしは別にしても母を救って下さい。」と神様に嘆願しました。また「母が救われたら献身します。」とも神に伝えました。

それから三日後、病院に行くと、正座した母が「おまえ、わしを一人にして何処へ行っていた?」と言うので、唖然としました。

「母さん、僕が分かるの!?」「馬鹿言うじゃ無いよ!」看護師がきて「良かったね。努力が認められたのよ」と云われ、母が回復したと思いました。医師が病室に来られて奇跡的回復だよな〜とも語って下さいました。

驚きながら、感謝しながら、献身すると言ったけど、振り返って本当に自分がふさわしいのか?と
新たに思い悩み始めました。
それから一年後、ヘンリ・グルーパ師が富山にも初来日ないました。

その時に、「神があなたのビジョンを祝福します。」と語られ、何故?私の祈りを知っているのだろうか?驚きならも涙に溢れました。
その場を観ておられた先ほどのクリスチャンからも支援が有り、神学校に行くことが出来ました。
ヘンリー先生が語られた3日後のことです。

今まで述べたことから、私が詩篇23編が、私自身の歌になり、讃美に変わりました。
死を覚悟したり、希望が無い、人生計画失望があったも、先が見えない、しかし主の杖が導く方向を指し示す。新しい水飲み場を与える神様です。

詩篇の通りです。

01539613785719b0b4fdb969df89164fe3739a9dd7

さて、詩篇23と私たちの関係をヘブル語から見てみましょう。

1節は、主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。で始まります。

ヘブル語ではアドナイ・ヤハウェハ=神、羊飼い。と始まるの二つの単語です。

ヤハウェハは、在るて在る者。存在を示す言葉で神にしか使えない言葉です。

その神がアドナイ・イルエ、満たす神である。と始まります。

また羊飼いと書いて有り、羊をも守る存在です。

ダビデ自身も羊飼いは身近な存在です。少年期から父親の羊を見守ってきました。


2節 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。

2節は8つのヘブル語単語から成り立っています。

{牧草地の中に}女性名詞と前置詞。青草。圓燭錣擦襦の辺に。水辺。諸々の水。安らぎの。完全に導きました、これは{強調された意味。}から成り立ちます。

羊は神経質です。自分は安心できないと固まって身動きしません。
水飲み場が無いと死んでしまいます。その水も羊が安心しないと飲みません。

羊飼いは羊たちが安心できる牧草と水を与えます。神様も私たちを同様に扱います。

私たちは神様を拒否しない限り、迷わない限り 安全な状態に暮らせるように導きます。

神が選んだ場所に導かれます。私たちにとって、その場所が最適だと判断なさいます。

3 節 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。

ヘブル語では8つの単語から成り立ちます。

私の魂を、導かせます、私を、諸々の道に、義の、〜の故に。彼の名からで成り立ち、

御名のために私を義の道にとは?

私たちの羊のためでもありますが、彼の義とは、神様ご自身の正義ですね。
私が先ほど証しさせて頂いたように、絶望的な母の癒やしや 献身者とふさわしくないのでは?と
言う疑う、先行きの不安以上に。

神の計画が優先されるのは神の義、御心を優先されるときがあります。

聖書イザヤ書41章10節にも書かれてあります。

「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」と書かれてありますね。

神様が守ると太鼓判だと書いて有ります。

また。エゼキエル36章22節から26節にも私、神が行うのは、ご自身の名誉のためだとも書いて有り、
清めること。新しい心を与えるとも書いて有り、神様ご自身が保証しておられます。

なので、先行きを私がを恐れていたら。今日の私はありませんでしたね。


4節、 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。

ヘブル語では、主要な単語は14個で構成されています。

(私は)歩む、 谷において、死の陰の、〜ことはありません、(私は)恐れる、悪い(ことを)なぜなら、あなたが、私と共に(いる) あなたの鞭が、そしてあなたの杖、{そしてあなたの杖と訳されましたが、爵との意味もあります。王様しか持てないのです。}
それらが、慰める、私を、その他の接続詞もありますけれど。

御言葉から、死の陰とは?羊には絶体絶命な状況下ですね。

オーストラリア森林火災を覚えておられるでしょうね。コアラや沢山の動物と人々が犠牲になりましたね。
牧草地が火事になれば、羊たちは彷徨います。羊は死を覚悟しないといけません。
燃えさかる火の輪、その中に神が立って下さり羊たち、私たちを守る事を意味しております。
差し迫る炎をと云う災い、現実の中に神が来て下さるのです。

ダビデも多くの予期せぬ災いを経験しましたね。その時、神様はダビデに行くべき道 知恵を示されましたね。

日本人の考える鞭や杖は叩く道具ですが、私が観た羊飼いは決して叩きません。

私がアルジェリアで、道を歩いているとき、向こうから羊の群れがきました。

すると羊は立ち止まりました。羊の後ろから声をかけられました。
「ムッシュ、道を空けてくれないか!?」と・・
私が道を空けてよけると、羊飼いが持っていた杖で羊にその杖を差し伸べると羊たちは動き始めました。
棒ともとも訳された中には王様しか持てない爵という権威の象徴の道具の意味も隠されております。

神は神様が使用なさる方法で導かれる安心感をダビデは詩篇の中に読んでいます。

23:5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
ヘブル語では、主要単語が10個で構成されています。前置詞と接続詞もありますが数えませんでした。

(あなたは)整えます。私の面前に、食卓を、〜の前に、私に敵対する(者たち)。
あなたは(完全なる)油を注ぎます。油によって、私の頭に、私の杯は、満たす(充満する。)

敵の前で宴会を催される神様を表現した歌ですね。宴会をもよす環境と、時が必要ですが、
神様がその環境をあらかじめ用意されるとダビデは語りかけています。

宴会を催すにはその宴会係が働きます。招かれた客は黙って座るだけです。
神が開催された宴会に、私たちはただ主席をするだけです。

神の招きを断らずに、主席すると頭に油を注いで最高のもてなしを受けます。

昔は香油ですね。それも高価な香油、あなたもナルドの香油の話を思い出して頂けませんか?

日本人は小さな杯を思い浮かべやすいですが、外国の杯はワインカップ、
しかも大きなカップを意味する言葉です。

溢れるほど注がれる神様からの歓迎の祝福を受けるのですね。

6節を観てみましょう。
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

ヘブル語では約15の主要単語で構成されています。
確かに、善が、そして慈悲が、追いかけます、私を。日々の、そして慈悲が、ことごとく。
私の生涯の、そして(私は)住みます。

家の中に。主、ヤㇵウェㇵ=在る者=の、長い期間に及んで、日々。

ここではダビデの主なる神への献身と決意が表明されている言葉で締められております。

ダビデ自身も、父親兄弟から彼を忘れられた存在でした。
サウル王からも殺されそうになり、最初の嫁からも馬鹿にされました。それも彼は神に信頼しておりました。
そんな中でも、ダビデは大きな過ちを犯して仕舞いますね。神様は予言者ナタン通してから、ダビデを責められます。
彼は大きく悔い改めます。
またダビデは税を徴収するために人口調査のような改革策をした。ダビデは、いつの間にか王国を主なる神のものではなく、自分のものとした過ちを犯しました。

それらから彼が建てようとした神殿は受け容れられず、息子ソロモンが神殿を建立するようになりました。
それでも彼ダビデは何時でも悔い改めて、神から離れない決心を繰り返して告白しております。

ダビデの告白、悔い改めの言葉が残されております。

詩編 51章11節 私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。
切実な願いは神は聞き入れます。神はその儀によって、ご自身の言葉の守って下さいます。

さぁ〜 私たちも献身、神から離れないで神、主の家を住まいとしませんか?

最後にこの聖書箇所と詩篇23を読みたいと思います。

詩70章4節と5節。 あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。
あなたの救いを愛する人たちが、「神をあがめよう」と、いつも言いますように。
私は、悩む者、貧しい者です。神よ。私のところに急いでください。

あなたは私の助け、私を救う方。主よ。遅れないでください。

主の助けは、私たちの思いを越えて何時もグッドタイミングですね。

0157afbcbd768621ebb257041f1dc18ed407b50889

詩23編を読みます。

主は私の羊飼い。
私は、乏しいことがありません。

主は私を緑の牧場に伏させ、
いこいの水のほとりに伴われます。

主は私のたましいを生き返らせ、
御名のために、私を義の道に導かれます。

たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、
私はわざわいを恐れません。

あなたが私とともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。

私の敵の前で、あなたは私のために
食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。
私の杯は、あふれています。

まことに、私のいのちの日の限り、
いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。
私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。


長きにわたってご覧下さり、
まことに感謝申しあげます。

あなた様には叩▲リストからの
豊かな祝福が注がれるようにとお祈り申しあげます。

こんにちは、私のブログや動画に目を止めてくださったことを心から感謝申し上げます。

さて今回のブログは動画とリンクさせて頂きました。動画での文脈と説明を読み上げましたが、文字でもわかりやすくしたいとこのブログに少し書きました。それはヨハネの福音書、概要とその区分、 文脈とその中も有る主題についてです。
私のYUOYUBEでは読み上げている、(字幕付き。)ですが。このブログには、区分と文脈と見出しを書き出しております。 あなたの聖書朗読で、ボーションで、ご参考になればと願っております。

描かれた物語、小説などにはストーリーの区分、文脈と見出しがあります。聖書にも登場人物と関わったストーリーの文脈があります。文脈のテーマを追っていくと聖書の理解が深まっていきます。見出しのテーマを覚えている時、また、速読する時の聖書理解にもお役にたつと思います。
               


さて、もともと聖書には章とか節の区分はありませんでした。これらの章の区分ができたのは1227年ごろにカンタベリー大司教でスティーブン・ラントン師が作ったと言われています。節の区分は、それから200年後に出来たと言われておりました。

ヨハネの福音書の朗読全巻が終わりましたが、その文脈の概要を短くまとめてみました。あなた様が聖書を読まれるときに何かのお役に立てればと願っております。

私がここで申し上げている区分とは全体の話の流れの区分けです。

大きな区分の中にある分け方を文脈と申し上げています。その文脈の中に細かく分かれた話を主題の見出しとして読み上げております。そのところをご理解、踏まえてチェックしてくだるとヨハネの福音書の流れと主張テーマをご理解しやすくなると思います。

さて、ヨハネの福音書の序文はイエス・キリストが真の言葉であると言う紹介から始まっております。それは、1章の1節-18節に書かれました。
見出し 1章1節から、言葉が人となった。霊であったイエスが神の属性を保ちながらロゴス(人が語る言葉、ギリシャ語由来。)になったと、ヨハネによるイエス・キリストの紹介から始まります。
  
区分けと文脈と各章の見出しの記録は以下です。

聖書はもともとユダヤ人イスラエルに対しての紹介であったために、1章19節から51節には、イスラエルに対するキリストの紹介が書かれてあります。

見出し  その1番目にバプテスマのヨハネについて、1章19節から36節。
 バプテスマのヨハネは、自分はメシアでは無いことを明言して、後から来られるメシアの備えを促す。
見出し。1章29からバプテスマ ヨハネによる神の子羊の明言。 
見出し。1章32から 聖霊によってバプテスマを受ける主イエス。
文脈の2番目と見出し 最初の弟子たちのことが書かれております。1章37節から51節
 神の子羊と言う言葉に惹かれた弟子たちの紹介。それぞれ個性豊かな人物像。

序文の次に本文が始まって行きます。
区分1番目。キリストの公生涯の働きとしての記録、教え、証言、啓示等が記録されました。
大きな区分は、2章の1節から12章の50節までです。
見出し No1   最初のしるし、水をぶどう酒に変える。2章1節から11節。
   イエス様は最初の奇跡をカナの婚礼で行いました。
   少し解説しますと、ユダヤ人の古い習慣から、十戒にも書かれているように、
親への尊厳を持つ、親や親族、特別親しい友人からの頼み事は断れないのです。

   母親であったマリアの頼み事を断らなかった理由の1つとも考えられ、
   それは当たり前のことであって特別なことではなかったと、当時の生活習慣から
   思い描く私ですね。
   これは私が中近東で駐在員 生活し知りえた 民衆の生活習慣、実体験かも
   お話ししております。
イエス様は、女の方と言って母の頼み事を断りました。それは特別なことでは無かった気がします。
その時はまだ神の栄光を表してはいけないと考えられたと思います。なぜならイエス様は絶えず、父なる神の栄光と神の定めた時を考えておられました。

しかし、聖霊からの促しがあったのでしょうか?考え方を変えられたと思いますが、近くにいる弟子たちに神の栄光を示そうと思いを変えられました。

この文脈の最後にイエス様が行った奇跡の目的は最初の弟子たちがイエス様の奇跡を通して神とイエス様を信じるためでした。文脈の最後にはその目的が書かれてあります。

  家族と弟子たちと共にカペナウムに行く。2章12節から文脈が変わります。

文脈 No2  見出し 神殿についてのユダヤ人との対決、2章13節から22節。
   イエス様の神殿の清め。 礼拝に来る人々を相手に商売をする人々を蹴散らす。
   本来の礼拝場所の意味をイエス様は民衆に向かって訴え示す。
  19節 神殿を3日で建て直すと宣言。ユダヤ人から反感を買う。
  エルサレムでの過越の期間中に人々の注目を集めるイエス 。2章23節から25節

文脈No3  見出し 最初の対話、教え〜 新生と新しい命について、3章1節から21節

  ニコデモを教えるイエス・キリスト
  主イエス証をするバプテスマのヨハネ、3章22節から4章3節。

文脈 No4  2度目の対話、教え〜 生ける水について。 4章 46説から54節。
   見出し サマリアの女性と話す主イエス。 命の水についての問答。
  見出し 弟子たちが戻ってきてサマリアの女性と話すことについて不思議に思う。
    サマリア人のリバイバルが井戸のそばにいた女性から始まる。
   ガリラヤでの歓迎 4章43節から45節。

文脈 No5   2番目のしるし、役人の息子の癒し、4章46節から54節。
      5章1節 エルサレムの祭りに参加。

文脈 No6   3番目のしるし、安息日に病人を癒す。5章2節から18節。
  ペテスダの池 安息日に病人を癒したことで、ユダヤ人との口論になる。
  見出し  神子によるの命 5章16節から。

文脈 No7   3度目の対話、 教え〜 神の子の権威について。5章19節から47節

    見出し  31節 主イエス、ご自分について証言。
文脈 No8  4番目のしるし 5000人への給食 わずかなパンと魚で5000人を満たす。
  見出し 6章1節から15節

文脈 No9  見出し  5番目のしるし、イエス様が水の上を歩く6章16節から21節。

文脈 No 10.  見出し 2度目の対話。教え〜 命のパンについて。6章22節から59節

文脈 No 11. 見出し 弟子たちが主イエスから離れる。6章60節から71節
   6章54節に「私の肉を食べ 私の血を飲む。」と言う事を聞いた弟子が、
   その霊的な意味を理解できずイエスのもとから離れる。
 私たちの罪のために十字架で死んでくださったキリストの恩恵に預かることによって
 霊的 命を受け取ります。
キリストの御言葉と親しい関係を保つことによってキリストの命を体験し続ける。
キリストは言われました。「私があなたに話した言葉は霊であり命です。」
また「私が命のパンです。」と言われた。

これが「私の肉を食べ、私の血を飲む。」と言う意味の真意だと思います。
この時。すでにイエスキリストは父なら神の使命とビジョンを理解し、ご自身が死ぬことを自覚しておられました。
 時が来るまでユダヤ行きを避けようた主イエス、7章1節から9節
イエス様は最初は祭りに行くことを避けられた。しかし、途中でエルサレムに登られた。
心境の変化の詳しい事は書かれていない。個人のためにイメージする事は良いかも知れないが、聖書に書かれていないことを詮索し過ぎるのも行き過ぎだと思う。確証の証拠は聖書の中に隠れております。
565CA29C-D99A-4130-AEB1-6C2E0D3697D2

文脈 No 12   見出し 仮庵の祭りでのユダヤ人への教えとのやりとり、7章10節から36節

    見出し 25節 イエスはキリストか?
文脈 No13   見出し 5度目の対話、教え〜 命を与える霊 7章37節から52節
      見出し  ユダヤ人達の不信仰。
文脈 No14   見出し 姦淫で捕らえられた女性への思いやりと解放、そして許し。 
     7章53節から8章11節

文脈 No16  イエスについての本質、神についてのユダヤ人との論争、
    8章31節から59節   
    見出し 31節から アブラハムの子孫
    見出し 42節から 悪魔の子達
    見出し 48節から 主イエスの主張
文脈 No17    見出し 6番目のしるし 生まれつきの盲人の癒し、 
       9勝1節から 生まれつきの盲人を癒す主イエス
       癒しの検証するパリサイびとたち 9章13節から
       霊的な盲人 9章35節から

文脈 No18   7度目の対話 教え〜 良い羊飼いとは 10章1節から21節
    見出し 良い羊飼いとその群れ 10章1節から

文脈 No19  宮の清め、エルサレムの祭りでユダヤ人からの敵意  
       10章22節から42節
      見出し ユダヤ人の不信仰 10章22節から

文脈 No20  7番目のしるし。ラザロの蘇り 11章1節から45節
     見出し ラザロの死と復活 マルタとマリア 

 神の栄光を表すためにわざと遅れていく。イエスの涙。マルタとマリアへの愛。
      そしてラザロの蘇りに話が進む。

区分 第2番目、イスラエルによるキリストの拒絶 11章46節から12章50節

    ラザロの復活を見て信じるユダヤ人。しかし復活の印から逆に信じないで
    イエスを殺そうとする計画の話がユダヤ人祭司長等の中で進む。

文脈 No   見出し パリサイ人によるキリストの殺害の陰謀  
       11章46節から57節
文脈 No  見出し 主イエスに香油を注ぐマリア 12章1節から11節

    *注釈 ナルドの香油はヒマラヤ原産のオミナエシの花の根っこから作られました。
      今は作られていない模様。
文脈 No   見出し エルサレムに勝利の入場する主イエス  
         12章12節から19節

文脈 No 見出し イエス・キリスト。ご自身が自分の死を予告する。 
      12章20節から36節

文脈 No   見出し 主イエスを拒み不信仰を続けるユダヤ人 
        12章37節から50節

hk02
区分第3。 キリスト最後の時〜 新しい契約。民への注目の促し。 
      13章1節から20章29節

文脈A  弟子たちとの最後の晩餐 13章1節から14章31節
見出し 1,  弟子たちの足を洗う主イエス 謙遜と使える心の模範 13章1節から17節
見出し 2,  裏切りと否認の予告、 13章18節から38節
見出し 3、父なる神への従順とその道。 14章1節から14節
見出し 4、聖霊の約束、 14章15節から31節

区分 第4  ゲッセマネへの道で 最後の説教、15章1節から16章33節
 見出し 1、 キリストに頼ること。 15章1節から17節
 見出し 2、 キリストと1つになること。 15章18節から16章4節
 見出し 3、 聖霊を期待すること。 16章5節から16節
 見出し 4、 悲しみが喜びに変わること。 16章17節から33節

区分 第5  イエス・キリストが弟子たちと、未来との弟子のために祈る。 
      17章1節から26節
区分 第6   主イエスの究極の苦難。 18章1節から19章42節
見出し 1、 裏切りとイエスの逮捕。 18章1節から12節
見出し 2、 ユダヤ人の裁判  18章13節から27節
見出し 3、 ローマ人 ピラトの裁判 18章28節から19章16節
見出し 4、 キリスト、十字架の処刑 19章17節から37節
見出し 5、 キリストの体の埋葬 19章38節から42節

区分 第七 キリストの勝利の復活。20章1節から29節
20章の見出し ヨハネ著者による、これを書き残す目的の言葉 宣言。
20章30節から31節

結びの言葉。21章1節から25節

ヨハネはイエスキリストは神の子 人々の救い主であると言うことを訴えております。
この福音書が描かれた年代は紀元 80年から95年の間と思われております。

3つの福音書 マタイ ルカ マルコは、少しガリラヤの働きを省いていますが、それらに対してヨハネは、ユダヤとエルサレムでの主イエスの働きを、前記の3つの福音書より多く記録し、神である 人であるイエス・キリストの人格の奥義について、さらに詳しく 深く洞察し記録しています。

ヨハネはイエスが1番愛しておられたものとして自覚しており、この福音書から明らかな事はヨハネ自身、著者がキリストの生き証人 記者としての視点で多くを描写しております。ユダヤ人の生活をよく知っていて、初代教会には多くの影響を与えた指導者の1人です。
アジアの教会指導者たちがエペソに住んでいた老齢になっていたヨハネにこの霊的な福音書を描くように依頼したと言われております。
それは当時、信仰者の間で起こったイエス・キリストの特徴と人格を否定する危険な異端。


キリストそのものとその教えを否定し、ヨハネの信仰を反映するためだったと言われ 人々を説得してキリストを否定したのです。
異端とはキリストの教えの一部分は信じても、キリストの教え全体を信じていなくて、その異端者の考え方が中心です。そんな彼を信じてユダヤ人が引き込まれ誤った教えに従う人々が居ました。(クリントスはキリスト神であると言う事実を否定していた。) 

当時の異端者はキリストと一緒に生活していないで、直接、キリストを知らなかったからです。
また当時の異端としてはマニ教の影響を受けた二元論やグノーシス、ヨーロッパの様々な神話に影響受けた異端などなどが発祥しました。

それらに対抗するために、主イエスが実際に生きて、人々に示された神についての重要である事をヨハネは書き記しました。今日に至ってもヨハネの福音書は教会には、今も変わらず重要な証言となっております。

聖書を読む時には、区切られた章や節で読み分けるよりは、私が示した、書いた文脈の流れで読むとき、意味が深く理解できるかと思います。あなた様が聖書を読まれるときに、私が述べた事が参考になれば大変嬉しいです。

終わりに、これを見てくださったあなた様に、聖霊による助けと聖書の理解が深まるようにとお祈りいたします。

中秋の名月。日本は陰陽暦ですね。
ユダヤの国も陰陽暦ですね。なぜならば、ユダヤ暦で今日10月2日は仮庵の日です。祭りの日です。
2020 仮庵の祭り. 夕方に開始:
10月2日
金曜日
夕方に終了:1
0月9日
金曜日

moon2

仮庵とはエジプト脱出の時の過ぎ越しと粗末な住まいに住んだことを忘れないための記念日。
その区切り記念日の曜日も父なる神の天地創造から始まりました。

創世記1:14-18
images (1)
1:14 ついで神は、「光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のために、役立て。
1:15 天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」と仰せられた。するとそのようになった。
1:16 それで神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。
1:17 神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、
1:18 また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神は見て、それをよしとされた。

日本語の解釈では、しるしや季節、日や年というのはすべて太陽が役割を果たしているように見えますが、言語ヘブライ語は太陽と月の両方を用いて、しるし、季節、日、年のため役立てと述べていることが分かる。
つまりここからも、太陰太陽暦の必要性を述べることができる聖句箇所です。
月に関する神からのお言葉も聖書には書かれております。

エゼキエル45:17
君主は、祭りの日、新月の祭り、安息日、すなわちイスラエルの家のあらゆる例祭に、全焼のいけにえ、穀物のささげ物、注ぎのぶどう酒を供える義務がある。彼はイスラエルの家の贖いのため、罪のためのいけにえ、穀物のささげ物、全焼のいけにえ、和解のいけにえをささげなければならない。
ほかにもエゼキエル45:17。コロサイ2:16でも祭りや新月や安息日のことについて書かれました。
神様はこの世界を創造された時、ご自身で作られたすべての生き物を知っておられ、人間には、時間を区切って働くことと休むことが必要であることも知っておられた。神ご自身も世界を創られた後に休まれましたね。

創世記1:14-15
1:14 ついで神は、「光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のために、役立て。
1:15 天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」と仰せられた。するとそのようになった。どの月であっても、四つの安息日によって構成されている。
六日間は働き、七日目は全き安息の日である。
神は世界を創られ陰陽暦を用いて月の満ち欠けから安息日を決められた。

出20:8-11
20:8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
20:9 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
20:10 しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。――あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。――

20:11 それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。
一か月はは四つの安息日からひと月が出来上がっています。この安息の日というのは、神の子供たちが共に集まり、父なる神を賛美して創造の主に対して忠誠を示す日である。安息日というのは月の満ち欠けに従うもので、それはどこからどこまでというように明確には定められていない。
七日目の安息日に礼拝することは、それは父なる神様への忠誠心のしるしであり、神であるお父様を心から愛し、慕い求める人は七日目の安息日に礼拝するのです。

月の最初に存在する新月の祭りは、自分の信仰がどこに向いているかを最初の礼拝の日に確かめ、そして次の礼拝の日までにどうすべきかを決意する日です。
新月の祭りは毎月新しい心で月を迎えるための悔い改めの時です。
神様は、父は人間の思いを知っておられるので、毎月悔い改めの時を定められたのですね。

イザヤ66:22-23
66:22 「わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くように、――主の御告げ。――あなたがたの子孫と、あなたがたの名もいつまでも続く。
66:23 毎月の新月の祭りに、毎週の安息日に、すべての人が、わたしの前に礼拝に来る。」と主は仰せられる。

イザヤ61:4
彼らは昔の廃墟を建て直し、先の荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する。
 ユダヤ人は神に逆らい好き勝手な時代{アモス書時代}には、今回語って見ました新月の祭りを忘れてました。しかしながら神は忘れてはおられないのです。
神の意思は復活復興させる事。預言も含まれいるです。

キリストの復活の日は、世界が創造された第一の日、スタートの曜日に復活されました。

様々な願いを願っても叶わない、祈っても癒されない!パウロも願って癒されなかった事から、試練と受け入れる前に、考えては!?パウロほどに私たちの信仰があり、神と会話したのだろうか?
願い、癒されない理由を探すより、神の前に遜る、敬譲する者に、神は目を止めて聞いてくださるのですから。
あれだけサタンに痛めつけられたヨブに神は隣人を許し行動して祭壇を友人の為に築いたのを見たり、己を無とする迄にへりくだったヨブを祝福 回復して癒しました。 

神様からの試練や病は無く、神様から引き離そうとするサタンの仕業でしょう!

あれってヨブだけ!? FullSizeRender

 

キリストの契約の血から神の子とされた私たちに格別な目を注いでくださる神は、神子に与えたれた栄光を分けて下さいます。 

アレコレ聞かれない理由を探すようにサタンは巧みに私たちを騙して神から遠ざけようとさせます。たから、願いが叶うまて、癒される迄、へりくだり忍耐して 神の前に その栄光の現れを待てば良いのです。時があり 来たら滝のように激しく注いでくださる父なる神だから。

         565CA29C-D99A-4130-AEB1-6C2E0D3697D2


おはようございます。神様の言葉が私たちの支えです。今朝のデボーションから気が付いた事です。
信仰の正しさを神様が認めているヨブに関する信仰を試すようにサタンは神に言い寄りました。イエス・キリストが宣教活動を始める前に砂漠で40日40夜の断食をした後、サタンがイエス様に言い寄りました。

サタンは現在でも神様に言い寄って私たちを試すように言うだろうか? 此処がポイント!?

アダムとイブ{エヴァ}がサタンに誘惑され、神がアダムに託し所有していこの世の支配権をサタンに奪われてしまいました。この世に存在するものにあらゆる権利をサタンが所有してしまいました。
サタンが所有してしまった権利からヨブやイエス・キリストを誘惑し試みることも可能でした。けれど、キリストは十字架に掛かられて最後に言われた事は「完成した!」と言われました。 
この時点から大きく違ってきました。サタンは私たちを直接、試みる権利を失っていると思います。
          283B466D-8D8E-49DB-BE99-31D9CD3B5D06

しかし私たちの心の中には誘惑には弱いと言う性質は残っています。
ですからキリストの救いと聖霊の導きの守りは必要です。
罪を犯した、病になった関することには、サタンは直接。ヨブのように私たちに直接、手を出して下す権利も失った気がします。
ただ私たちが不注意だと、誘惑に負けたり、不摂生から病気になったりします。それでも、神様に願い祈る時、十字架の救いをしっかりと心に刻み確信する者には救いの道を、癒しの道を開いて下さる。

サタンから我が子達を殺されたり、本人ヨブは難病、皮膚病になりコテンパーに!徹底的にやられますけど、神は己の信仰の正しさを最後まで主張し無いで、減りだるヨブを見た上で隣人を許すこと示された。その為に贖罪の祭壇を築いて祈り許す行動をしたのを見られた神様は、ヨブの全てを回復させました。
              565CA29C-D99A-4130-AEB1-6C2E0D3697D2

ここにすべての望みと信仰とへりくだりがあると改めて思いました。

『病や誘惑は神から来るから、試練として受け入れるます。』て考えずに、最初にすべき事は、あれこれ理由を満たされない、応えられない理由を考える前に、神の前にへりくだる、自分自身を見つめて神の哀れみと救いをこい願う事ではないだろうか。

神により深く近づくこと、へりくだり救いを求める者を決して粗末には扱いません。ではこのへり下りを可能にするには、私たちの助け主である聖霊様を歓迎し委ねる、お任せし私たちを作り替えていただくことでは無いだろうか?
            FullSizeRender


神の栄光に、徹底した期待{信仰}を持っておられますか?

キリストは天に昇る前に、『世の人々をキリストの復活した事、救いを告げ知らせ弟子として洗礼を受けさせるように命令。癒せよ、死人を蘇らせよ』と語られた。
キリストの福音を、救いを信じて語る時、神の栄光、憐みから癒しが有る。私たちの優れた行いや信仰が有るから癒しやしるしがある訳では無い!
父なる神は己の存在を神の前に謙り、神を崇めるよう願われた。私たちが謙り、神の栄光を求めの時、癒しをキリストはその栄光を伴うように、表すように癒しを与えてくださる。
          FullSizeRender

しかし、祈っても癒されないから無意味と言う。
難病が癒されないのはなぜだと理由に挙げる。しかしながら、祈る人 祈られる人が全権に神を信じているのだろう?主の救いをしっかりと100% 確信しているのだろうか?
私たちの感情とか信仰のレベルは日々上下すでしょう!! それを助け導きを補ってくださるのは聖霊様の助けです。聖霊を知る事は、キリストを知ることと同じです。また同様に父なる神の御心を知り膝まずくことと同じです。
             FullSizeRender

パウロが祈っても癒されなかっただろうとそれを理由としてあげる。
だけど、私たちパウロほどの信仰があっただろうか?と私は自分に問いかける。
ケースバイケースがあることもわかるけど、最終的には御心と私たちがキリストに対する信頼の深さ、何年も願い続ける期待する、忍耐力の強さが左右する気が聖書から分かって来る。キリストが癒しを行われた聖書箇所から。

ある方は祈っても癒されないから無意味と言う。それは、、私は違うと思う。決して無意味ではなく、それらを通じて私たちの存在意義を知るようになると思います。
            C642933D-A04F-4462-909C-05383BD4512C
《「彼らはエシュコルの谷まで来て、そこでぶどうが一房ついた枝を切り取り、二人で棒で担いだ。また、ざくろやいちじくの木からも切り取った。」(民数記13:23)
ガリラヤのぶどう🍇 写真の葡萄の説明 》


神は私たちがキリストの栄光を語り告げ、癒すこと、死人を蘇らす事を命令なさいました。
死人が日本人の中でも起きるように信仰的な期待感を高めて求めませんか!?
求める前に諦めたら来ない癒しがありますように、起きないのでは無く。神の栄光を徹底した期待しないのでは?

その神さまご自身をさらに強く敬服の念、伏して求める時ではないでしょうか!?
神様の癒しがない。日本で人が蘇った例がない! ? 教会成長しない。だから求めても無駄との意見は間違っていると私は思います。

私たちに与えられた問題で、直接神の栄光に比例はしていないと私は思っています。ヨブ記の後半には、父なる神とヨブの会話。この中に多くのヒントが、考え方の方向性が示されている気がします。苦しみや病は神が与えた、与えるものだと言う意見もありますが、神は直接私たちに手を下さないのです。下すのはサタンに施行です。

         IMG_0163

終わりにいつもブログを見てくださりありがとうございます。
心から暑中お見舞い申し上げます。iPhoneでブログを開くと安全ではありませんと表示されてきます。それが気になってあまり最近はブログを更新していません。ブログのURLがライブドアの方で調整中です。それがなかなか進行しないので困っています。しかしポツポツと更新はしていきますので どうぞ続けてご覧ください。あなたに神様の祝福が豊かにありますようにお祈りします。

九州で大雨の大災害発生。
また、ある人は病で病で苦しんでいる。私たちに襲ってくる突然の不幸。私たちクリスチャンはいかに自分の心を整えるべきだろうか?

IMG_0161

大災害、大洪水で人類が滅びことがあります。そしてノアとその子供たちだけが生き残った後、その光景があまりにもひどかった!心を痛めた神様は固く約束なさいました。
「このような洪水人を滅ぼさない」と約束しました。
だけど、近年の日本は温暖化?異常気象が続いて歴史を塗り替えています。

D5828AB1-0C7D-4518-B588-686000260378

この神様がノアに約束を踏まえて考えると、大洪水で日本や世界が一斉に滅びたわけでは無い事は明らかです。1部限定な地域に洪水が起きているわけですから。
なので、神が与えた洪水では有りません!

IMG_0159

だとすれば、どのように私たちは思えば良いのだろうか!?心を定め難く迷いが生じます。

洪水や家族の死に直面した人の心中は計り知れず悲しみは深いのです。「これは試練ですきっと、乗り越えられます。」と励ましの言葉もときには、直面した人には、さらに傷を深めることがになりかねません。

3012E23E-11C2-448F-B850-89125258DFEE

災い、不幸、重病、そして死に直面した時。私たちにとって重要な事は、クリスチャンとしてのアイデンティティー{自己の存在価値観}ではないでしょうか!?

その存在価値は大変すごいものです。父なる神は、神子の命を犠牲にしてまでも、父親に反抗し出て行ったあの放蕩息子のたとえのように、私たち1人々を、我が子として迎え入れる程に溺愛してくださいます。

溺愛しているの(されているはずなのに)に、なぜこんなことが起きるんだろうか?と思うかも知れませんね。

CD888841-2E1B-47F7-A713-9EC5D06602A9

あなたが信頼し愛している友人がいたとします。いや友人よりも愛している人、我が子に置き換えてみるといかがでしょうか?

我が子が絶対に私を裏切らないと言う強い確信を父母は持っています。そんな中で、隣人から嘘の話が伝わります。「ねえ、ちょっと聞いてよ。あなたの息子(娘)さん、自分の親のことをひどいと話していたよ!私の親はいつも懲らしめてひどいことをするのだ」と隣人から言われたとしましょう。
その隣人は嘘をついているのです。

7C842F37-9FD4-4995-9F76-792DB1FCCEAD

我が子は決してそのようなことを言わないと信じています。しかし隣人からの嘘の攻撃があまりにも強く、親は決してそのようなことを言わない息子(娘)だと理解していて隣人には 「君はそれは嘘じゃないか!」と答えますが、隣人は〈そこまで言うならそれを一体どうしたら証明できるんだ〉と言われてしまいます。

困ったあなたは、親は溺愛しているあまりそれを証明したくなったとしましょう。その隣人に「ちょっと嘘の情報なら、わざと流して 私への愛を確かめてもいいですよ」と許可してしまいます。

調子に乗った隣人は親と子供の愛を引き裂こうと試して見ようと仕向けてしまいます。
不幸や災い、重病を生み出すように生活環境を変えさせようと仕向けてしまいます。

しばらく忍耐し様子を見ていましたが、溺愛が勝って『もうその辺でよくわかっただろう。私の子供は決して親を裏切らないから、彼に間違った言葉を言ったり、間違った道に進んでも、私は必ず引き戻すから!』と隣人に試みる、試練を下す事から引き下がるように伝えました。

89E19DF5-0824-4DF9-B7F2-C0532AE1C987

上記の例え話は、聖書ヨブ記を身近に置き換えたものです。神は私たちを溺愛するあまり、時として私たちをさらに深い神様の愛の深みに導くことをなさるような気がします。

最後まで神様から離れず、希望を持つものは、最後に神様からの大きな祝福、永遠の命を確立いたします。それは神の子キリストを信じることから、離れないことから、神の愛を深く味わい知ります。

神様に近づこうとする時、サタン妨害がありますがありますが、へこたれず、神に近づこうとする時 救いの手があり今まで見えなかった、目に入らなかったものが見えてくる聖霊の導き、神の世界が広がっていきます。

神子の命を犠牲にしてまでも、私たちを溺愛されている父なる神が居られる事を再認識しましょう。これがクリスチャンのアイデンティティー(存在認識)の土台なのです。
例えば、百合の花のカサブランカ(その他の花々にも)近寄って拡大していくと新しい形や、細胞までが見えるようになるわけですから、絶対何があろうとも父なる神から離れずついていきましょう。

新たに大きな祝福があるようにお祈りします。

このページのトップヘ