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心の風景、愛の聖書、福音と癒やしと日常から。ミカエル小栗

ミカエル小栗がつづる心の風景。聖書の福音は愛と救いと癒やし。日常の出来事の心の雑記帳風景ブログです。聖書に基づくカウセリング、祝福と救いと心の癒やしを祈ります。あなたの教会のメッセージ奉仕もします。ご依頼はメールにて!

カテゴリ: キリスト


3月3日 ひな祭りですね。ひな祭りの人形に生まれた子供の災いを身代わりになってもらい川に流す習慣がありました。今は雛人形自体が高級品となって川に流す事は無いけれど、紙に書いた雛人形を流す習慣が今でもあるようです。

さて、1968年、昭和38年の大雪のひな祭りの日に私は洗礼を受けました。14歳でした。時の流れはあっという間です。
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教会に行って2回目にイザヤ書53章の朗読があり、その言葉から意味を知りました。
私たちの災いや苦しみや病をキリストが背負ってくださると言う事を知り、納得出来ました。


イザヤ書53章には以下の言葉が書かれてあります。

53章1〜12節 * 主とは神のこと

1、私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか。

2 彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。

 53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

 53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

 53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

 53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

 53:7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。

 53:8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。

 53:9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。

 53:10 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。

 53:11 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。

 53: それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。



14歳だった私は朗読なされた意味の全てをその場で全部理解は出来ませんでしたけど、キリストは人を知らず生まれ十字架にかかった事は知っていましたが、イエス様の生涯が生まれる前の紀元前701-681年の間に書かれその通りになったことに驚きました。

またそんなに簡単にイザヤ書の言葉が納得できたこと言いますと、「打たれた傷で癒される。」と言う言葉から納得できたのです。この教会に行こうと思い立った理由の中には、私自身の扁桃腺の癒しを体験していたからです。この教会に行く半年前ほどに、私は扁桃腺の手術のため2人部屋に入院しておりました。
隣のベッドの人がラジオを聞いており「うるさいなぁ〜」と思いつつも、ラジオで語られている福音放送に少し耳を傾けてしまいました。
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外国人のたどたどしい日本語で、「病気で入院している人がイエス・キリストによって癒されるように。そう思う人はアーメンと言いましょう!」のアナウンスに耳を傾けてしまい、
キリストに祈る意味も良く理解してはいませんでしたが、本当に神様がおられるなら、治りなりたいと、アーメンの意味もわからず、この神様にお任せしようと決心して・・「アーメン!」言った途端に頭からつま先まで何か?電気が流れるようス〜ッとスキャンMRIされるような感覚に襲われて感動感と温かさ包まれ、なぜか涙が溢れてしまったのです。

ちょうどその日は私が手術した当日だったので看護師が何度も検温をしに来て首をかしげて「不思議ねー熱が出ないわ!」と言いながら何度も何度も検温を繰り返しに私のベッドの間を往復していました。
後で知った事は手術後には高熱が出るらしいのですが、一切。高熱が出ていなかったと後々に、看護師の方から伺いました。手術の傷跡も一般よりも早く治りました。


そのことが心にあってキリストのことを知りたいなぁと思い始めて、たまたま同級生にそんな話をすると、「それならあそこに教会がある。俺もそこの教会に何回か行ったことあるから一緒に行こうか。」と教えて誘ってくれたのです。そして初めての教会に行った日がちょうどクリスマスの日でした。クリスマスの御祝いの時、教会って楽しそうだなーと思いました。


話を戻して、先ほどのイザヤ53章から、預言は驚きでした。キリストの生まれ、その生涯が書かれた通りにそれは実現したことに、驚きを隠せませんでした!!キリストが十字架に掛かった後に蘇った、復活したことを知り驚きました。

14才でしたが、キリストは人知れず家畜小屋で生まれたことと十字架で死んだことくらい知っておりました。
予言通りになり。人の苦しみや病を身代わりになったんだと前記のイザヤ書を読み上げた後、詳しく教えて下さり理解しましたし、私を癒やされた信じようと思いました。

何があってもこの神様、キリストから離れないようにしようと決心しました。

幼かった私は罪に対する自覚はあまりなかったと思います。ただイエス・キリストが、父なる神が真の神 創造主であることを信じることができました。

小さく祈った印を求めたとき、クリスマスの星のように流れ星が観たいと呟いた途端に。それが目の前にあったからです。そして、この神、キリストを一生涯 礼拝していこうと心に決めました。

両親は仏教を信じていてその様子を見ていてあまり仏と言う存在に疑いを抱いていたからだと思います。なぜなら仏を信じている両親を見ていて苦労ばかりしていたから良いことないと幼心に思っていました。

成長するに従っていろいろ問題を抱えてきました。そして罪の意味も成長するに従ってわかってきてそれを神様に委ね許しを乞うこともできるようになりました。
妻の癌、その死を経験し、なぜ先に死んだのかと思い悩みました。神様はすぐには回答は出しませんが、それ以上の大きな慰めを私に与えてくださいました。


また大きな奇跡、母のアルツハイマー記憶喪失認知症からも神は癒してくださいました。医者も奇跡だと語り、母は自分の口で告白して洗礼と聖霊(異言も)を受けました。

そのたびにキリストに救われて導かれました。キリストはすべての苦しみと問題や病を背負って取り去ってくださったからです。

前期のひな祭りの言われ以上に、キリストの身代わり背負ってくださる事は真実です。
紙に書かれた雛人形よりも、木でも石でも彫刻された物も沢山ありますが、それらに神々よりも確実に救いを与えます。確実に癒してくださいます。もしあなたが心から信じきるなら、。

完全に信じきれなくても、少しの不信仰でも、キリストの身代わり、罪からの解放を信じる事が出来るなら、神は私たちを見捨てずに、導いて私たちの思いと信仰を変えて下さいます。

それら以上に、先に挙げた彫刻された神々にはできなかった復活がキリストにはあるのです。キリストこそが真の神です。
私たちの苦しみや悲しみの元になっている罪 怒り 憎しみ等をイエス・キリスが身代わりとなって背負ってくださるのです。

ひな祭りと流しびな、復活の唯一の神、イエスキリストは流し雛より確実に、全ての災いや苦しみ、病を身代わりになり取り去ります。更に重要な事が有ります。

私たちが真の神を、知らず身勝手な生活、神様の思いから外れた的外れなこと。キリストの教えではその的外れな行動や考え方を罪といいます。十字架の死が、私たちの身代わりで、その代価としての死を、十字架の死が身代わりだと信じるとき、キリストがすべて背負います。
十字架で、私たちの身代わりに死んでくださって罪を許すだけでは無く、新しい命で生きるようにリセットできるように復活してくださいました。
キリストの十字架の死は単なる死ではなくて、私たち、あなたの為です。

私は今も父なる神、主イエスキリスト、聖霊を心から賛美し感謝します。この神様から何があっても、例え大きな過ちを犯したとしてもキリストから離れないでいようと決心しております。悔い改めるとき、告白して許しを求める時に、神はキリストの十字架を通して許して下さるからです。

神から離れない決心には、詩篇第1のお言葉があるからです。
詩篇1:2 まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
 1:3 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。

栄えるとは経済的なこと、名声的な意味より心の豊かさ、キリストに在る救いだと私は思います。

キリストを信じてもたらされる霊と魂の救い 心の平安があなたにもありますように
お祈りします。



私は強く、叶えなれたい願望的な祈りは、

神にだけに祈る。人に、公には全てを言わないようにします。山が動くと信じて祈ります。
奥まった部屋で一人神と向き合う事の大切さが有ります。

「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、 隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」マタイ6:6

11:22 イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。 11:23 まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。マルコ11章22〜25節 信じて山が動く=神様が定められた時もありますので、忍耐して待つ忍耐もひつようなときがあります
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そんな中。限られた人、信頼できる方のみには、共同の祈りを助けを求めて一緒に祈ります。 自分がしている 行っている事は 余り言わない事が多いかも知れませんねー。自身の功績全てを右手を左手に伝えない自警します。

イエス様は「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」と言われました。施しとか自分が行った功績などなど、。マタイの福音書6章2〜4節
「私はこんな宣教を事をしました。こんな事で奉仕しました。」祈りの助けを求めるのでは無く、誰か人に認められたい願望が含まれていないかを吟味しないといけない気がします。人は一般的他者から認められたい願望は大なり小なり持っております。

偽善的「施し」を批判する一方で、イエス様は人々に対して、神を意識する生き方を勧めておられます。「あなたは施しをするとき、右の手のしていることを左の手にも知られないようにしなさい。」(3節)。この言葉の真意は、常に共同で作業をする右手と左手を例にあげることによって、その右手のしていることを左手に知らせないほどに、自分でも「私は善行をしているんだ」と意識しないことなのです。実際問題として不可能と思われることですが、このような勧めを通して、イエス様は、私たちの心を神を意識して生きることに向けさせようとしてくださっているのです。

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信仰、祈りだけで病を治す!?

 私たちが生きている現代には、多くの良い医者がいます。けれど、イエス・キリストが生きておられた時代には、医療は発達しておらず、イエス様に18年も病だった長血の女性が癒やされましたが、彼女が掛かった医者は良い医者では無かった。長い間、医師に治ると言われ続けて18年間。治らないので、必死にイエスキリストの下に来て癒やされました。

それと同じようなことが現代でも起きます。

 医療事故、ミス、医師の知識不足、手術の技術不足、酷いのは患者をモルモットみたいに取り扱いし、その医師の手術の技術のテストにされて問題発覚したことさえニュースに流れてきます。
良い医師に巡り会うことも、情報の発達した現代では恵みの一つです。

私が母の癒やしをキリストに願い祈り続けて4年余り。医師が匙投げていたアルツハイマー病の記憶喪失からキリストがいやしました。弱っていた身体、歩くことが困難だったけれど、サッサと歩けるようになる。洗礼を受けて救われました。
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 記憶を失ったときは、母は未だキリストを信じていませんでしたから、私の願い、祈りは次の通りでした。 『主イエス様、母が救われるように、母の口から「イエス・キリストは、私の主です。」と告白出来るようにして下さい。』と祈った結果。父なる神が御心動かして、御子の栄光を表されたのだと思います。

私たちは癒やされるように祈りますが、それより大事なことがある気がします。
癒しが先に求める前に、神子キリストの栄光を第一にする。救い、天国に行ける救いを求める事が大切だと思う。神子キリスト栄光の現れの一部が癒しだと思います。


救われてキリストと共に天国に凱旋し行けるように祈る事では無いでしょうか?
私たちの魂、霊を引き連れて天国に行くことが、御子の第一の栄光では無いでしょうか?

必ず救われるという希望、願いから、主イエスは様々な奇跡さえも与えて下さいます。

信仰により確信を待つなら、全ての事にやる気がわく。心の平安が来る。
キリストからの人のつながり知恵と情報、聖書の言葉を貰います。

良き知識と経験値の高い医師にも巡り合う。良き医師に巡り合うならば医療から治す確率が上がる。

信仰だけで治すには100% 神を信じ切る必要です。だが、これは中々、難しくて難しい気がします。信仰的な不安が湧いて来やすいからね。だから助け合い不安=不信感を解消し助け合う二人、三人で祈りながら、聖霊の助けが必要ですね。 
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病に限らず、二人〜三人で祈る事を聖書は勧めていますね。

マタイ18:20 「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」 私はこの御言葉からいつも2〜3人で祈ります。主が来て下さり祈りを聞いて下さるからです。

しかし祈りの実がなるまで、父なる神の計画もあります。
アブラハムに、直系の子ども イサクを与えると、神ご自身から語り継げましたが、信仰的な試練と試練を受けながら、25年近く架かったことも中にはあります。私の母が救われるまで4年。その他、年月を要しても神は答えられました。

私の体験や聖書を見ても答え願いが叶うまでに時間もかかる場合と、直ぐの答えられる場合と様々です。
それでも御心通りになるように祈ります。あなたが祈りを受ける場合に必要な事は、キリストに対する幼子の純真さ期待と信頼です。

私たちが願ったら神は聞いておられるのですから。

マタイ 21:22 「あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」
しかし、答えられるまで諦め無い忍耐が必要です。


幸いにその様な方に巡り合い、様々な癒し、耳、目、歩ける、心の病、内臓の癒しなど多数。神の栄光を見せて頂きました。主を賛美します。
私はあなたの願いをお聞きして一緒に祈ります。

キリストの救いは別に必要ない、救われなくても良いけれど、現状、辛いから癒やしを願ったとしても、言われたとしても、それは御子の栄光に、果たしてつながるだろか!?

第一に御子の栄光を求めた上での癒やしを祈りのであれば、イエス様はあなたの第一主治医になって下さいます。


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私たちがどんな状況下に陥ったとして、
思わぬ災害、病、解決策が見えない困難な状況 難問題を抱えたとしても、主キリストがおられ助け出される希望があります。そのためにも神への信頼を積み上げることが重要になってきます。
信頼は、一日二日で出来上がりませんが。それらを助け導いて下さる主キリストの霊、聖霊様がおられます。そして神様への信頼は、アブラハムとイサクの犠牲から、考えるとき、僅かでも神に従っていく決心さえ有れば、神は私たちの問題の解決の糸口を与えて下さいます。

アブラハムは神に従う、信頼をしようと辛い決心。折角、与えられた息子を決心をしました。その最後の時に、神はストップをかけて、解決の糸口、身代わりの羊をアブラハムに与えました。
病の癒やしにも良き医師や新しい医療知識と知恵を与えて下さいます。

 有るときには。、主を裏切ったとしたとしても、神への信頼を再び持てるように導きます。 
それは丁度。逃げた 裏切ったペテロ他の弟子をガリラヤ湖水辺でパンと魚を用意して待っておられた、主キリストの愛が有ります。

様々な問題 不信感 病を抱えてしまう私達です。 それでも見放さない主キリストです。 
ダビデも様々な問題を抱えたけど、その度に神から離れず 助けを求めて賛美し祈り願いをして 見放さないでと嘆願しました。私は癒しや問題解決の前に神を、深い愛を賛美しているのです。賛美の中に主 父なる神は喜ばれて栄光を表してくださると信じてます。

絶対的な信頼から生まれ信仰が芽生え、神との絆が深まります。
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そうです。聖書の世界観は、何となく身近に感じにくくて遠く感じやすいですね。けれど 聖書に登場した人たちは、私たちと同様に悩みながら 不信感を信頼に変えてきました。
少しでも 神の存在を身近に思えるようにと育ってくださる主キリストに、聖霊に助けられてきました。
私たちも 同じく 聖書の世界観は別世界では無く身近になるよう祈ります。
信仰が徐々に、聖霊様によって整えられてゆき、終わりの日にはしっかりしたものとなるように切に祈ります。聖書に出てくる信仰者達も私達と一緒です。
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その神の栄光が表されてあなたの抱えている問題や病の解決を見ることが出来ますように。
苦しみ 患難の中でも 神キリストには立ち上がれる力を持っています。言葉より涙しか出ない人々をかえり見て、信頼と希望を失わず保てますように いま一度 あなたの栄光の力 愛に溢れた慰めを与えてください。
ガリラヤで、パンと魚を用意して下さった主イエス・キリスト様。あなたの助けと慰め 励まし、具体的な解決と癒やしを待っています。 立ち上がれるように 信頼とやる気から与えて下さい。

アモス 4:12 それゆえ、イスラエルよ、わたしはあなたにこうしよう。わたしはあなたにこのことをするから、イスラエル、あなたはあなたの神に会う備えをせよ。

ある方の嘆き、

「クリスチャンになって、数十年、ホントに、自分の中に、聖霊が内住して下さってるのかなぁ?と思います。

誘惑に弱く、すぐに、罪を犯してしまう。自分でも、こんなんじゃ、ホントに永遠の都に入れて貰えるだろうか?

と思っています。御座の裁きの時に、「あなたなど知らない」と言われないだろうか?と思います。」


「聖霊によらなければ、誰も「イエスは主である」とは言えないのです。」 コリント12:3

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 と書いてある様に、神、聖霊からの信仰の賜物です。

それによってあなたも 私たちもキリストを、主をキリストとする信仰が与えられました。キリストの救いは完全です。とも主イエスは弟子たちに伝えました。 

イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。マタイ18:22 とも主イエスは弟子たちに伝えました。 


私たちの行いでは救われないし、完全な律法を出来ていないから、救われないと不安を抱くよりは、神の言葉 完全な救いに信頼しませんか。

神の言葉は真実、キリストの愛に基づく行い、あなたを救うために十字架にかかったのは真実。あなたの行いの自信よりも強いのです。


ヘブル13:5より。
主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」

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キリストの救を固く信じ(私たちの行いでは救われないのですから)いつまでも許してくださいを繰り返さない事も大切です。いつまでも許して下さいと嘆き祈る事は、一見、謙虚さがある様に見えるけど、キリストの完全なる救いを遠巻きに否定することにつながりません。


「だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。」ローマ8:34

「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。」ローマ8:35

「しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。」ローマ8:37

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信仰の賜物は聖霊によるものです。聖霊によらなければキリストを主とは告白出来ません。様々な賜物には優劣はありません。賜物に必要 不必要はありません。しかしこの信仰が土台となったときに素晴らしい賜物を生かすことが出来ます。

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私は中学生で洗礼を受けて社会人に、

念願のコック見習いに成りました。日曜日は飲食店は稼ぎ時、礼拝時だけ抜けて礼拝に出で直ぐに戻り仕事をしました。年数が経つと仕事上 責任が増えて、中々抜け出せ無くなりました。次第に礼拝からは遠のきました。
日曜日以外の日の祈祷会には休みを取って行くようにしましたが、 高度成長期で中々。休みもタイミングが合わず、先輩からはそんなに信仰に深入りしたらダメだとも言われました。
休みが取れた日には、 鍵を開けて貰い一人で誰もいない教会に行き 賛美して祈っていました。
一般的に役職が上がる⤴️と 責任が増し 日曜日出勤も有りますね。{最近は景気低迷から無いかもしれないけど?}
日曜日以外の休み勤務者 、例えば病院勤務  美容院 理髪店など日曜日に休めない人たちの礼拝が有ると良いですねー、私がいた若い頃の教会では無理だと言われガッカリ。平日にも沢山の集会があって良いですね。
         
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日曜日以外にも礼拝 祈る時間があると一般に分かると 足を運びやすいかもしれないけど、一般的な日本人の信仰は、毎日の生活には直結していないです。毎週、教会に行く時間を作るようなことは無く、例えば仏教を信じている人も、毎日、祈る事は無くなってきていると聞きました。葬儀とか結婚式だけの宗教になっています。

毎日、神様との交わり、聖書を開いて読み 祈り讃美すると言うと、そんなに深入りしなくても、怪訝な顔、「私はそこまでは出来ない。」と答えが返ります。毎日、宗教的に関わることが嫌われている日本人のが多い気がします。

けれど決心をして、毎日の中から時間を割くと神キリストからの実質的な恵みがある事を知らないからだと思います。 
キリストを信じて毎週。教会に行く。一般的な日本人に多い、ある深入り感覚を取り去る必要な有ります。そうで無いと中々 クリスチャンになることを躊躇<ちゅうちょ>する気がします。ためらい生活が続くと信仰を保つことも困難になる気がします。

福音と言えば、十字架の罪の赦しとか、罪人の話から進める事が多い気もします。
正統論、正義論 福音論から話を進めるばかりでは無く、たまには、キリストを信じたときの良かった様々な恵みや癒やしの話から、キリストの力{即に言う御利益に感心を持って貰い 。}次に、十字架の話に進んでもいい気がします。
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日曜日以外の礼拝も良いと思います。高齢者が増えてきています。
教会に行けなくなった高齢者 そんな人を訪ねて行き個人的な礼拝をリードすることも必要です。
様々な事情から、教会の礼拝に行けなくなった方がおられます。その様な方々を私はフォローしています。{多くは、私のブログとHP。SNSからのコンタクトです。}
個人的な交わりから聖書の解き明かし、聖書の意味 生活の中からの願い事を祈り 癒やしも祈っています。
私自身が教会に行きたくても、行けないことの経験から生まれた事です。

神に祈ること、讃美すること、礼拝と集まりは止めないことです。止めなければリアルな神キリストからの恵みを受けます。

詩 26:12 私の足は平らな所に立っています。私は、数々の集まりの中で、主をほめたたえましょう。

詩 89:5 主よ。天は、あなたの奇しいわざをほめたたえます。また、聖徒たちの集まりで、あなたの真実をも。
教会に集まりお互いの信仰を確認しあうことは後々、あなたに祝福をもたらします。

使 2:46 そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、。ヨブ記8:5 もし、あなたが、熱心に神に求め、全能者にあわれみを請うなら、
ヨブ記8:5 もし、あなたが、熱心に神に求め、全能者にあわれみを請うなら、
 8:6 もし、あなたが純粋で正しいなら、まことに神は今すぐあなたのために起き上がり、あなたの義の住まいを回復される。 
この記事を見た方の祝福をお祈りいたします。

神は義なるお方、その判断は
悪くはないと信じて祈ります。そして、神に救いを求めます。


私たちの病気も遺伝も 親のせいではなく、信じて救いと癒しを求めて、神の栄光が現れる為です。

ところで最近。何かと話題になる同一性障害 ジェンダー LGBTGIDの人々に触れて、{あるSNSにコメントしました。そのコメントに加筆してこちらに書きました。}


環境下の影響、自己認識により罪の意識に違いが出ます。親 親族 他の環境下からの影響から良いこと、悪いことの認識を少なからず受けて育ちます。
また、その中で育って行く間に、己の(自己の認識)認識により性別は芽生えて育ちます。
その例の一つに、「可愛い女の子だね〜。とか 強い男の子だね。」と周囲から言われることによっても芽生える性的な認識もあります。

しかし、肉体が男{女}であっても自己認識が狂うことは、誰にでもある可能性があることですから、決して神が悪くはないのです。

肉体が男{女}で生まれでも強いショックを受けた心の傷から性を受け入れられないことが起きてきます。

精神的なショックから自己認識が間違ってしまった。受け入れられない心の病、強い願いもあり、育った環境の影響を受けてしまいます。


そして「こんな風に生まれたのは神が悪い!。」と呪う人もいます。
けれども、決して神は悪くはない。 いかなる場合も神は救いと解決の道を示しておられるのです。

生まれた性を受け入れられず、本人が苦しみ悩むことは悲しい、辛いでしょう。
同一性障害 、ジェンダーそして LGBTGIDの間は大きな違いが 原因の違いがあります。
これら
の人々に限らず、性に関わる罪や悩みは人知れず多いのです。


異性愛 浮気
男女の性の乱れ以上に、同性愛を表だって目の仇のようにキリスト教会の一部分で責める風潮もあります。「責める人は全く罪を犯したことが無いならば良い。」とイエス様はは語りました。

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神様の願っていることに従えるガイドラインとしての律法がありました。神の思いから外れることを罪(的外れ)とも言います。

律法は従わない人々を裁くためではなく、神の御心を知るためです。
いかに守れば神の願う人生の道を歩めるか!?を示したのが律法の目的です。
しかし完全に守る人がいない!全くの義人がいないのす。そこで神は人々を救うために、キリストは十字架にかかったのです。繰り返します。
神は裁く為では無く救う為に 十字架に掛かりました。律法主義の人の学びのためや、人間が人間を罪に定めるために律法が作られたのでは無いのです。


その罪から離れたい!しかし本人が中々 出来ず、悩み悲しんで、本人の意思からの祈りにより、父なる神はあらゆるところで、聖霊の助けと導きの道を開き、癒され救われます。 

現在、性の認識が違う場合もある方が多いのですが、聖霊の導きと正常な認識に戻れる祈りを求めるならば、癒されます。有るべき神が定めた姿に戻れるのです。


救いの道、罪や悪習慣を乗り越える訓練、力を聖霊により誰でもが受けて 聖化の道を歩みます。この人は異常ではとか 嫌悪感丸出しで・・頭から罪だと裁く前に。その人達に寄り添って救いの道を歩めるよう、悩み苦しんでいる人々を励ましませんか?


父なる神様はキリストを通して、
770倍を許すように語られました。


神を神として崇め第一にすることが1番の律法です。

正義を振りかざすことはイエス様の伝道スタイルではありませんでしたね。
神の命令に従うとき愛が与えられ、親子関係が結べる希望と望みを第一にお話になりました。従わないときは悲しい現実。永遠の魂の裁きが、私たちの死後にあることは、直接的に語られない 喩えで悟るように知恵を持ってイエス様は、私たちに語っておられます。

様々な思いからの呵責から解放されて 神の子になれる救いがあなたの前にあります。
キリストはあなたを救い、心の傷を癒やします。神が生まれるときに与えた性に修正 認識に立ち返ることが出来ます。

神である父の元に立ち返り、神の救いをつかみ取って下さいますように。

聖書には放蕩した息子の話が書かれています。自由気ままな生活から父親{父なる神}のもとに帰る話です。あなたの現在の立場がジェンダー、LGBTGID 異性間の問題)どのようであっても、神はあるべき本来の姿に戻れるように。あなたの心を癒して受け入れます。
神であるキリストの下に立ち返るチャンスはあなたにあります。父である神は、あなたの立ち返ることを首を長くして待っておられ、様々なチャンスを与えておられるのです。

放蕩息子1

これブログをご覧になれた方々が、神様からの祝福を受けるようにとお祈りします。
          

神は 私たちをキリストにより、

私たちの存在を否定しません。貴重なものと見なします。この「みなし」とはキリストの十字架によってです。
神に愛され選ばれたことから、 私たち自身も 神様からの視点から 自分たちを見るならば 自己否定は 神の視線では決して有り得ません。
神様の思いに対する的外れ、この的外れを別な意味からは罪に当たる意味を持つ言葉になります。 

キリストの十字架の贖いは完全!一度です。何回も十字架につける 掛かる必要はありません。
なのに 毎日 毎回 許して  許しての祈るのは キリストの十字架の贖いは不完全みたいな気がしませんか?
主の祈りにもあるように、ゆるしてより 悪を遠ざけ 守られること祈ります。誘惑に近づかない 裁かないなどなどがあります。

子どもの頃 悪ガキ 親が嫌がる  してはダメ、、わかっていたけど  ついね やらかす、
怒られ 叩かれ{きつく注意され、}はい おしまい! 親の愛情 神の愛による土台から許されているからね。親の愛情 神様の愛情があるのてす。神は決して見捨てないからね。
神様は愛が深いから 立ち直るよう導きますね、今は完全では無いかもしれないが立ち直り 悪から 罪から離れる方に力を入れて導きます。
犯罪者の親が子どもがどんな事をしたかより 愛していることを伝えるコメントを多く聞いた事があるでしょう。 裁く言葉より立ち直りを期待する気持ちが強いように 私たちの父なる神は それ以上です。

神から叩かれる!? 試練かな? その度に 軌道修正 信仰修正されています。
修正されないのは 見捨てられた孤児だよ。 しかし 神は見捨てない 孤児にはしないと言われたよ。

エレミアは神の言葉を伝えていきました。  社会人としては 無視され  社会的には成功しませんでした。誰も エレミアの言葉に耳を傾けませんでした。 

神は イスラムにバビロンに捕囚に   しかし 一定期間後に  希望を残しました。 エレミアを通して、、 それでも 社会人と エレミアを認めなかった、 ただ神の言葉を忠実に仕える 伝える実行しようとしたのはエレミアだけでした。
現代に生きる私たち、先に救われたのですから、神の言葉を伝えていく使命がありますね。

神の救い。十字架の福音を、復活した出来事を 私たちに適応させて生きたいです。
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神の言葉を語りたい。 大規模な教会成長。それも素晴らしいが、私は 地道にコツコツとを選びました、 しかしながら リバイバルは祈ってます。

私はただで受けた 母の癒し アルツハイマーの記憶喪失からの癒しを、隣人にかたり、また私自身の癌のいやしから、隣人や 私のインターネットを見た方々に癒しや奇跡を見たいと思い祈ってます。歩けなかったひとや目の見えない人は、その人ご自身の信仰により癒されました。私は信仰に励むよう励ましを導くようにしています。
他にも癒しを神からは見せて頂きました。著しい奇跡、死人の蘇りを求めて 見たいと祈っております。

キリストの復活や十字架の救いを伝える方法は様々有ります。各自、それぞれの方法があります。あなた自身の方法を用いてキリストの復活を日本に伝えませんか。

キリストは私たちの罪を贖うために

苦しみを受けることを決意なさいました。十字架の救いを信じ悔い改めることをキリストは私たちに教えられました。悪から離れ悔い改めて、神の御心に立ち返ることは、私たちクリスチャンの望みです。

ただ 悔い改めても、直ぐに罪を重ねてしまう弱さがありますが、最後の切り札、救いがありますよね。神様がして欲しい律法は中々 守れないので、先ずは 「お父さん ごめんなさい、又同じ過ち 的外れ(罪の意味は的外れ)をしています。父なる神よ。許してね!」子供のように私は謝っています。

しかしながら 直ぐに神様の御心からは的外れな事を忘れてやらかす、私なんですね。アッこれは神様が嫌がる事だと思う、考えてしまった!でも、してしまった。罪を繰り返してしまった。

でもね、ちょっとずつ 御心を模索して 御心に添えるように祈ります。それが悔い改めになります。 

絶対 父さんは、私たちを神子の十字架の身代わりの死を見上げて信じる者だけを許して下さる父さん{父なる神}だと思う絶対的な信頼関係を築く事が悔い改めになると思うのです。

何か 悔い改めと云うと ドーンと一度に 急激に変わる事を考えやすい日本人だけども、 おさな子のように徐々に御心通りに成長することだよね。

成長段階では繰り返す過ち 人生の道の選択間違えも有ります。 父なる神は全て先々までご存知かと思っています。

罪 過ちを意識するように成長することから、神は見放さず、御霊を取り去らないでくださいねと 祈ります。
罪や悔い改めを意識する事が救われた証ですね。 神子キリストを信じない人は、罪を意識しませんからね。
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父さん 神の御心通りになりたい、考え方や行動したいです。 だけど、したくない悪を考える私たちが居るのは何故だろう?
持って生まれたアダムからの罪の根が有ります。それは私たちがこの世を去る時 天国で完成される聖化です。 
今は徐々に聖化する成長段階です。 

神は私たちを見込んで 注意喚起して下さいます。ダビデにはサムエルが注意して悔いるよう提言しました。 そのナタンの言葉から謎かけ 忠告をして ダビデをさとさせ罪を意識させました。

神はダビデが悔い改めをすると見込んでいました。 ダビデも ハッと我に返って 悔い改めました。「御霊を取り去らないでください。」と嘆願して悔いました。

神は私たちを、見込み 救いに導き 悔い改めが出来るように助言者であり 助け手 導きの主 聖霊を送って下さいます。中々  悔い改めができないと思っているなら大丈夫です。
赤ちゃんが成長していくように、私たちも 聖霊と聖書の言葉がナタンに代わる助言者です。

仕事で先輩から注意や叱られることがありました。 仕事をするにあたって見込みのない者には言わないと言われたように、神様も時にはきつく叱る事 試練もあります。 

私たちを見込みありと怒る{試練}のです。神の御心通りに従う者には恵みを与える神です。 試練を通して御心を知り 聖書の言葉 教会 集会 隣人の人々からの助言が与えられて 悔い改めが出来るように導かれます。
主キリストの栄光を慕い求めます。その栄光により悔い改めや救い 命のパンが与えられることを感謝します。

「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。」 ローマ人への手紙 7:15〜17.

教会によって、私たちの信仰姿勢が左右されやすいですよね。


教会では聖書の説き明かしがされます。説き明かしをする牧師により、強調するところ 聖書に対する拘りや牧師自身の信仰体験 神様と向き合い方が違いますから、信徒にも少なからず影響が有ります。


牧師の話を聞いてから、話された内容が本当なのか?再確認を各自自身で聖書を調べる習慣付けが大切だと思います。自分でもう一度聖書を調べることここが大事なポイントです。


教会を通して語られるものは聖書ですが、元々 旧約聖書はユダヤ民族の為に 律法と歴史記録されました。

律法を完全に守る事は ユダヤ民族と私たちには難しいかった。

律法は 神の気持ち 御心を知るガイドライン まだ信仰姿勢を保つ養育係的 要素が詰まっていました。


例えば、ある人の考えたこと あなたが大切だと思う人が願っている事を全部 知ったとしても、 その人を思いやりその願いを全て叶えたい気持ちが私たち自身に有ったとしても、私たちがその気持ち通り全てしてあげる事は中々困難ですね。

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たくさんの要望が有ったけど困難だとわかったある人が絶対重要な要望を一つだけにして他を取り下げました。沢山有った要望がたった一つになって 私たちがその人の為にしやすくなりました。


ある人。その人とは父なる神 神子キリストです。沢山有った律法から神に近づく一つの方法を新たになさってキリストの十字架の身代わりの死を信じるようになさいました。 律法に有った 罪の罪過の生け贄をキリストの死が 私たちの最後の生け贄に取って変わりました。


律法の一つで有った罪過の生け贄をキリストご自身の身体の生け贄により終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。(ローマ10章 4節)

アブラハムがイサクを生け贄にしようとした時に 神は羊を用意なさったのと同じです。


人が義とされるのは行ないによらず、ただ神の恵みによって、キリストの血 罪過の生け贄を信じる信仰によることを明らかにしてくださいました。


律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。しかし、信仰が現れた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。

ガラテヤ3章 24〜26節


キリストは福音書の中ては旧約聖書を土台にして多くを語られ、ご自身は御子である事を 旧約聖書の完成を目指している事を説き明かしてくださいました。


福音書以外はパウロ自身の神学であると否定的な発言をする人もいますが、 パウロ自身も キリストの兄弟の一人 ヤコブも 旧約聖書の律法と キリストの救いの関係の重要性 習慣の関連性の大切さを訴えています。

パウロの教え 説き明かしの土台は、キリストの救いの福音と律法の関連性について話しています。ですから新約も旧約聖書も切り離せないし、現代の私たちクリスチャンにも大切だと思っています。


旧約聖書に書かれたユダヤ人が守るべきだと言われた律法は、異邦人の私たちへの適応は 第一回エルサレム会議により切り離されました。清めの儀式や食べ物の聖別  食べてよいものを厳しく定めた「カシュルート」 ユダヤ教の食事制限からは切り離されました。


では、その他の律法は全く無益な律法に成り下がったのでしょうか?

律法の原点は神様の気持ち 御心に基づいて、律法は私たちに神様の気持ちを伝えています。大切な事は神様がして欲しくない事 的外れな事が何であるかを 私たちに語りかけています。

 この語りかけの土台となる律法であり、神の気持ちの的外れ=罪を私たちに教え意識させる為に重要です。


キリストの救い、罪過の生け贄が完成した後、律法は今なお、私たちに罪の意思を示しています。ただ養育係は律法では無くなり 聖霊様に変わったと思います。キリストは天に帰られる前に助け主の聖霊を父なる神にお願いして送られると約束して下り、ペンテコステの日に約束の聖霊は下られました。

そして、弱かった信仰を大胆に変えたのです。


また律法によって隣人を裁く事よりも、律法により隣人を愛する者に変わりたいと思います。いかがでしょうか?


あなたの幸せ 癒し 祝福を祈ります

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