「もし御心なら杯を取り除いて下さい。」三日間の苦しみに我が身を重ねて!
先日の岡山からのドライブで帰宅後、何故か?急に背中が痛くて激痛!痛くて痛くて、立っても座っても寝ても痛くて睡眠不足が続きました。
病院に行こうか?深夜に救急車はあまり呼びたくないし、。ベッドに横たわっても背骨が痛くて寝れませんでした。
先日の岡山からのドライブで帰宅後、何故か?急に背中が痛くて激痛!痛くて痛くて、立っても座っても寝ても痛くて睡眠不足が続きました。
病院に行こうか?深夜に救急車はあまり呼びたくないし、。ベッドに横たわっても背骨が痛くて寝れませんでした。
そういえば今週は受難週だなぁ〜 キリストの十字架の苦しみと復活までの三日間を思いめぐらしながら激痛に耐えて夜中じゅう泣きながら叫んで祈りました。
打たれた傷によって癒されるんだと固く信じて祈り続けました。
打たれた傷によって癒されるんだと固く信じて祈り続けました。
すると3日後にすっきりと痛みが切れて、朝から動けるようになり背骨の激痛が全くなく嘘見たいです。 そんなわけで、三宮まで買い物に行けました。
キリストご自身の語った言葉には偽りはなく、キリストの義、言葉の正しさによって癒されたことを再認識します。エゼキエル36章22節から26節
イエス様がイチジクの木を見つけて食べたいと思われた。けれど季節外れで、その実はなかったのですが、イエス様はちょっとご立腹。その木に向かって「お前の味は誰も食べないようになる!」と言われたら、翌日まで枯れてしまったイチジクの木です。
ありえないこともイエス様のお名前と信じる言葉から様々なこともできるようになりますね。
誰かが言ったけど、100%の信仰ないと救われないと言い切る人がいます。
逆に100%信じなくても救われると言う人がいます。これを言う方はイエス様は愛だからが理由として上げます。
逆に100%信じなくても救われると言う人がいます。これを言う方はイエス様は愛だからが理由として上げます。
どちらを選択するかで微妙な違いが生まれる気がします。
前者は聖書の教えに忠実でありたい。努力してもそれに近づきたいと言う強い願いを感じませんか?
後者は、自分の考えの方を優先しがちで妥協 自分の考え方の妥協点を聖書の言葉にすり合わせていく事が多い気がしませんか?
後者は、自分の考えの方を優先しがちで妥協 自分の考え方の妥協点を聖書の言葉にすり合わせていく事が多い気がしませんか?
ただ 救いに関する信仰と信仰の行いは別だと私は思います。
誰でも十字架の救い=イエス様の身代わりが自分のためだったと告白し信じるだけで救われます。よい例がキリストと一緒に十字架にかけられた罪人が1人、告白して救われました。彼が何%信じたかも書いて有りませんが・・。あの十字架の上でのキリストの状況下では100%では無いだろうか?
もう1人は告白されず、その後、天国でどのようになったかは書かれてありません。
もう1人は告白されず、その後、天国でどのようになったかは書かれてありません。
その他の信仰の行いは日々の訓練からですね。またキリストや12弟子の生き方 信仰姿勢を目指す希望と訓練、信仰の高嶺を目指すことから生まれてくる生き方から生まれでる力があります。
イチジクの木が枯れたと弟子たちの質問に答えたイエス様の言葉をもう一度再認識している今朝の私です。
マルコ11:23 マタイ17:21
これは父なら神がイエス様に与えた使命{キリストへの固有の使命}でした。
なのでイエス様の杯は取らなかった父なる神なので、私たちが救われました。
また癒されました。マタイ26:39
なのでイエス様の杯は取らなかった父なる神なので、私たちが救われました。
また癒されました。マタイ26:39
文脈の流れからと読み取らないで、この言葉だけを取り上げると私たち日本人が謙遜や遠慮がちになりやすくないですか?
あまり強い願いの祈りを要求しないようになりがちです。御心だと諦める理由にしがちな私たちはいませんか? 私はそんな気がしてなりません!?
あまり強い願いの祈りを要求しないようになりがちです。御心だと諦める理由にしがちな私たちはいませんか? 私はそんな気がしてなりません!?
御心なら癒されなくても良いと言う逃げ口上にもなりかねない気がします。どのように受け取るかは、私たち側の問題だけど、。父なる神はハッキリと癒やす神だと自己紹介しておられます。
私たちの生活から生まれたばかりの赤ちゃんで信仰力が初めからありません。
しかし、いつまでも赤ちゃんの状態では神様はどのように思われるだろうか?
しかし、いつまでも赤ちゃんの状態では神様はどのように思われるだろうか?
神にそそがれる愛を体験し味わわないと成長できないのかもしれません。
神様を100%信じれるようになるように、神様から訓練されて、自ら進んで訓練して成長していくのです。
神様を100%信じれるようになるように、神様から訓練されて、自ら進んで訓練して成長していくのです。
適当な自分の考え方の妥協点で折り合いをつけて信仰を成長させることをやめるのは悲しいと神様は考えられるのではないかなぁ〜?
コメント