このブログはYOUTUBEにアップロードしました
動画を文字でも読めるようにと思い文字起こしををしました。以下がその通りです。

私は、小栗龍男と申します。ブログやYOUTUBEでは、ミカエル小栗。チャーチ・オブ・エルシャダイと名乗っております。

今。私がまとっている物はマントです。若い頃に駐在していたアルジェリアで購入。これよりもっと実用的な物を羊飼いが着ております。

私は民族衣装が好きで、駐在してきた国々の民族衣装を記念に買っておりました。
でも1番好きなのは日本の着物です。
     
お気付きでしょうが、神戸六甲山牧場からお話をさせて頂いております。
何故かと申しますと、詩篇23編と私たちと云うテーマでお話をしたいと思います。


多くの方々が、好きだ言われる詩篇23編です。
そして、私がこの詩篇に、自分を重ねた証しからですが、後半には後編はヘブル語の詩篇23の単語から思い浮かべる事柄をお話しさせて頂きます。
私はこの詩篇を身近に思えたのは、私自身が癌の疑い、宣告されたときです。神学校を卒業後、長期の断食を行って祈り求めた結果。神戸で開拓を始めます。

自活伝道ですので、私の仕事も住まいも見つかり、サーこれからと夢を持って開拓伝道を始めた矢先でした。仕事中に、私は激しい腹痛に襲われて、身動きできなくなります。

仕事を中断して、救急車で入院、検査をすると、先ず胆石があり、MRIでは胆管が膨れ上がり腹水溜まりかけておりました。医師に、「私には身近な家族が居ませんので、もし癌などがあるならば覚悟しないといけないのでありのまま告げて下さい。お願いします。」と伝えると医師は深刻な表情で、「癌の疑いは否めません!」と答えです。

そして、「今あなたは体力が落ちているので、直ぐには、手術は出来ません。ガンマーカーの検査結果は高い。暫く様子を見ましょう。」との返事を聞きます。
直面した現実に、祈る元気も失いました。私の妻も癌で亡くしているので、医師からの言葉は重く、私は死を告げられた気持ちになりました。そして、私は先が見えない不安な心に変わって仕舞いました。

聖書では、「明日のことを思い患うな。」と言う言葉がありますが、突きつけられた死という現実に恐れに覆われて祈る気力を失います。
神様が母親のアルツハイマー記憶喪失から癒やされていたことも忘れてしまうほどでした。
折角、ある方の支援で神学校を卒業し今から夢を持って開拓と矢先に、なんてことだ!と

「これが御心ならば、受け容れるしか有りませんが、デモ神様!あなたの栄光を現す私になりたい。』ですと・・あの方が、折角神学校に行かせて下さったのに・・と小さな思い、つぶやきとも言えます。

言葉というか祈りを忘れてしまうほど私は落ち込みました。失望感に覆われておりました。

呆然と数日を過ごすと、次の聖書の言葉を浮かびます。

「ふたり、三人が心を合わせて祈るとき聖霊が臨在して下さる。」という約束の言葉でした。

それは、マタイ18章20節に書かれてある言葉ですね。それで、思いつく限りの牧師、教会、友人クリスチャン達に事情を説明、多くの方々が祈って頂きました。

すると気持ちが落ち着く始めてふとある風景が心に浮かびます。

私の目の前には荒れ地の砂漠の谷間です。でもよく見ると、その先には緑の牧場が微かに見える風景でした。これは何だろうか?と思案し始めると、不思議に詩篇23編の言葉が重なりました。

そうだ!今は癌かも知れないけれど、母の時のように、神様の栄光を第一に求めその結果がどの様であれ、神様に従おうと決心が出来きました。

それも、神の御心の許しの中での病気であるなら、差し迫った不平不満、不安を捨てられるように願い祈りました。

告白できたのは、「私は今。死の谷間に居ますが、この先を通り過ぎたら、必ず緑の牧場、神様の居ることをに行きます。」と言う決意を告白しました。

逆説にこれは、ヨブ記の1章5節からでした。ヨブは息子達に対して余分な不安を捨てないで保っていたからです。余計は心配は避けよう!サタンが心の隙間に入り悪さをするという警戒心からです。

私からの祈りの要請を聞いた人たちが、次第に見舞いに来て下さるようになりました。
自活のために働き始めたばかりで現実的な心配がありました。それは入院費、手術の費用です。
手術の結果承諾とにも支払いにも保証人が要ります。現金が無くて困り果てました。

その間、医師に呼ばれ繰り返される検査が続きました。検査を終えて、ベッドに横たわろうとしたら、枕の下に封筒がありました。その中には現金が同封されております。

30万を超える金額が同封されて、相部屋の方に伺うと、「私も検査に呼ばれていたので、どなたが来られたのかは分かりませんね」という返事でした。
現在に到っても、その献金が誰からだったのか・分かりません。

手術後、麻酔が次第に切れていく夜に誰かが私の手を握り励まして下さいました。
それは無言ですが温かい手でした。

麻酔が覚めてから、看護師に、「誰か私の手を握り励まして下さった方を見かけませんでしたか?」と伺うと見かけませんね。「では、看護師さんですか?」『私たち看護師は、そのような個人的な対応はしませんから〜。』

では誰が・・? いまだに謎です。

麻酔が覚めながら意識がもうろうとしていましたが、あの手に触れられた、あの手の温かさ、今も感覚は忘れられません。

その後、あれほど腹水が有ったのですが、癌は消えていました。
微妙ですが、ガンマーカーの反応は残っていたそうです。胆石除去の場合は10日ほどで多くは退院するらしいのですが、医師からは暫く様子を見ましょうと言われ、汽月ほど入院延長になりました。 徐々にですが、あの癌反応 血液検査からも消えて行きました。
気を緩めずに、再発しないように5年間は祈り続けました。

さかのぼって、献身神学校に行けるようになったのは、あるクリスチャンが、学費のすべてをお一人で支援した下さいました。
その前にも、既にお話ししましたが、母のアルツハイマーからの回復、癒やしを神様が与えて下さって下さいました。

90年代の出来事です。

私は海外駐在から帰国して地元で小さなレストランを開業しました。
少年時代からの夢を実現したのですね。

順調に滑る出しました矢先に、母の発病でした。店の経営と管理、母の看病で疲れ始めて時に、兄弟からは、「このままではおまえが潰れる。母さんは病院にまかせろ!?」と言われますが、母の救いが、告白が未だでした。
母の様子を見たり、医師からの言葉で絶望的な母でした。
それでも、私の声に反応する日も稀に有りましたのです。

声の反応と言っても、誰が話しかけているかは分からず、「ご飯食べよう!」というと口を開ける仕草をしました。でも飲み込む事はしません。吐き出します。

栄養補給の管や点滴を打たれるようになり益々、ひどい状態になりました。
医師の治療は絶望的でしたが、人格が消えたようでも、霊は生きているから救いを求めるように祈りました。母自身の口で、神の栄光を讃えられるようになるように祈り求めました。

癒やしよりは、先に、、第一に神の栄光の表れ、救いを求めました。

その間に、わたしは店と病院の往復で疲れて倒れてしまいました。
折角の夢だったレストランを閉鎖することになりました。

当時。私が所属していた教会では、癒やしのことは余り語られず、何故?聖書に書いて有るのに、不思議なギャップがありました。
それで母の回復を求めて、キリスト書店にある信仰書から始めて模索し、癒やしのセミナーにも参加しました。
そこで観た癒やしの様子から、牧師には頼らず自分で祈って見ようと

聖書。マタイ17:21に書いて有るように断食をしました。

「ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません。」と書かれて有ったからです。

これで癒やされないなら、諦めるしか無いけれど「癒やしは別にしても母を救って下さい。」と神様に嘆願しました。また「母が救われたら献身します。」とも神に伝えました。

それから三日後、病院に行くと、正座した母が「おまえ、わしを一人にして何処へ行っていた?」と言うので、唖然としました。

「母さん、僕が分かるの!?」「馬鹿言うじゃ無いよ!」看護師がきて「良かったね。努力が認められたのよ」と云われ、母が回復したと思いました。医師が病室に来られて奇跡的回復だよな〜とも語って下さいました。

驚きながら、感謝しながら、献身すると言ったけど、振り返って本当に自分がふさわしいのか?と
新たに思い悩み始めました。
それから一年後、ヘンリ・グルーパ師が富山にも初来日ないました。

その時に、「神があなたのビジョンを祝福します。」と語られ、何故?私の祈りを知っているのだろうか?驚きならも涙に溢れました。
その場を観ておられた先ほどのクリスチャンからも支援が有り、神学校に行くことが出来ました。
ヘンリー先生が語られた3日後のことです。

今まで述べたことから、私が詩篇23編が、私自身の歌になり、讃美に変わりました。
死を覚悟したり、希望が無い、人生計画失望があったも、先が見えない、しかし主の杖が導く方向を指し示す。新しい水飲み場を与える神様です。

詩篇の通りです。

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さて、詩篇23と私たちの関係をヘブル語から見てみましょう。

1節は、主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。で始まります。

ヘブル語ではアドナイ・ヤハウェハ=神、羊飼い。と始まるの二つの単語です。

ヤハウェハは、在るて在る者。存在を示す言葉で神にしか使えない言葉です。

その神がアドナイ・イルエ、満たす神である。と始まります。

また羊飼いと書いて有り、羊をも守る存在です。

ダビデ自身も羊飼いは身近な存在です。少年期から父親の羊を見守ってきました。


2節 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。

2節は8つのヘブル語単語から成り立っています。

{牧草地の中に}女性名詞と前置詞。青草。圓燭錣擦襦の辺に。水辺。諸々の水。安らぎの。完全に導きました、これは{強調された意味。}から成り立ちます。

羊は神経質です。自分は安心できないと固まって身動きしません。
水飲み場が無いと死んでしまいます。その水も羊が安心しないと飲みません。

羊飼いは羊たちが安心できる牧草と水を与えます。神様も私たちを同様に扱います。

私たちは神様を拒否しない限り、迷わない限り 安全な状態に暮らせるように導きます。

神が選んだ場所に導かれます。私たちにとって、その場所が最適だと判断なさいます。

3 節 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。

ヘブル語では8つの単語から成り立ちます。

私の魂を、導かせます、私を、諸々の道に、義の、〜の故に。彼の名からで成り立ち、

御名のために私を義の道にとは?

私たちの羊のためでもありますが、彼の義とは、神様ご自身の正義ですね。
私が先ほど証しさせて頂いたように、絶望的な母の癒やしや 献身者とふさわしくないのでは?と
言う疑う、先行きの不安以上に。

神の計画が優先されるのは神の義、御心を優先されるときがあります。

聖書イザヤ書41章10節にも書かれてあります。

「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」と書かれてありますね。

神様が守ると太鼓判だと書いて有ります。

また。エゼキエル36章22節から26節にも私、神が行うのは、ご自身の名誉のためだとも書いて有り、
清めること。新しい心を与えるとも書いて有り、神様ご自身が保証しておられます。

なので、先行きを私がを恐れていたら。今日の私はありませんでしたね。


4節、 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。

ヘブル語では、主要な単語は14個で構成されています。

(私は)歩む、 谷において、死の陰の、〜ことはありません、(私は)恐れる、悪い(ことを)なぜなら、あなたが、私と共に(いる) あなたの鞭が、そしてあなたの杖、{そしてあなたの杖と訳されましたが、爵との意味もあります。王様しか持てないのです。}
それらが、慰める、私を、その他の接続詞もありますけれど。

御言葉から、死の陰とは?羊には絶体絶命な状況下ですね。

オーストラリア森林火災を覚えておられるでしょうね。コアラや沢山の動物と人々が犠牲になりましたね。
牧草地が火事になれば、羊たちは彷徨います。羊は死を覚悟しないといけません。
燃えさかる火の輪、その中に神が立って下さり羊たち、私たちを守る事を意味しております。
差し迫る炎をと云う災い、現実の中に神が来て下さるのです。

ダビデも多くの予期せぬ災いを経験しましたね。その時、神様はダビデに行くべき道 知恵を示されましたね。

日本人の考える鞭や杖は叩く道具ですが、私が観た羊飼いは決して叩きません。

私がアルジェリアで、道を歩いているとき、向こうから羊の群れがきました。

すると羊は立ち止まりました。羊の後ろから声をかけられました。
「ムッシュ、道を空けてくれないか!?」と・・
私が道を空けてよけると、羊飼いが持っていた杖で羊にその杖を差し伸べると羊たちは動き始めました。
棒ともとも訳された中には王様しか持てない爵という権威の象徴の道具の意味も隠されております。

神は神様が使用なさる方法で導かれる安心感をダビデは詩篇の中に読んでいます。

23:5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
ヘブル語では、主要単語が10個で構成されています。前置詞と接続詞もありますが数えませんでした。

(あなたは)整えます。私の面前に、食卓を、〜の前に、私に敵対する(者たち)。
あなたは(完全なる)油を注ぎます。油によって、私の頭に、私の杯は、満たす(充満する。)

敵の前で宴会を催される神様を表現した歌ですね。宴会をもよす環境と、時が必要ですが、
神様がその環境をあらかじめ用意されるとダビデは語りかけています。

宴会を催すにはその宴会係が働きます。招かれた客は黙って座るだけです。
神が開催された宴会に、私たちはただ主席をするだけです。

神の招きを断らずに、主席すると頭に油を注いで最高のもてなしを受けます。

昔は香油ですね。それも高価な香油、あなたもナルドの香油の話を思い出して頂けませんか?

日本人は小さな杯を思い浮かべやすいですが、外国の杯はワインカップ、
しかも大きなカップを意味する言葉です。

溢れるほど注がれる神様からの歓迎の祝福を受けるのですね。

6節を観てみましょう。
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

ヘブル語では約15の主要単語で構成されています。
確かに、善が、そして慈悲が、追いかけます、私を。日々の、そして慈悲が、ことごとく。
私の生涯の、そして(私は)住みます。

家の中に。主、ヤㇵウェㇵ=在る者=の、長い期間に及んで、日々。

ここではダビデの主なる神への献身と決意が表明されている言葉で締められております。

ダビデ自身も、父親兄弟から彼を忘れられた存在でした。
サウル王からも殺されそうになり、最初の嫁からも馬鹿にされました。それも彼は神に信頼しておりました。
そんな中でも、ダビデは大きな過ちを犯して仕舞いますね。神様は予言者ナタン通してから、ダビデを責められます。
彼は大きく悔い改めます。
またダビデは税を徴収するために人口調査のような改革策をした。ダビデは、いつの間にか王国を主なる神のものではなく、自分のものとした過ちを犯しました。

それらから彼が建てようとした神殿は受け容れられず、息子ソロモンが神殿を建立するようになりました。
それでも彼ダビデは何時でも悔い改めて、神から離れない決心を繰り返して告白しております。

ダビデの告白、悔い改めの言葉が残されております。

詩編 51章11節 私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。
切実な願いは神は聞き入れます。神はその儀によって、ご自身の言葉の守って下さいます。

さぁ〜 私たちも献身、神から離れないで神、主の家を住まいとしませんか?

最後にこの聖書箇所と詩篇23を読みたいと思います。

詩70章4節と5節。 あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。
あなたの救いを愛する人たちが、「神をあがめよう」と、いつも言いますように。
私は、悩む者、貧しい者です。神よ。私のところに急いでください。

あなたは私の助け、私を救う方。主よ。遅れないでください。

主の助けは、私たちの思いを越えて何時もグッドタイミングですね。

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詩23編を読みます。

主は私の羊飼い。
私は、乏しいことがありません。

主は私を緑の牧場に伏させ、
いこいの水のほとりに伴われます。

主は私のたましいを生き返らせ、
御名のために、私を義の道に導かれます。

たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、
私はわざわいを恐れません。

あなたが私とともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。

私の敵の前で、あなたは私のために
食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。
私の杯は、あふれています。

まことに、私のいのちの日の限り、
いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。
私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。


長きにわたってご覧下さり、
まことに感謝申しあげます。

あなた様には叩▲リストからの
豊かな祝福が注がれるようにとお祈り申しあげます。