過日に、100%と神を信じる事は重要であり、
信じる事によって、癒やしを受ける事が可能になると、私の個人的な信仰見解を述べた事があります。
それを見た方からのご意見で、繁栄の神学を語る牧師達の常套手段との意見を頂きました??
何故に繁栄の神学と言われたのか?その方の信仰的背景は分かりませんけれど、。
          7BBB6C18-3C0A-4FA0-8F02-2C263FEBB4BA

その方が言われた事は次の通りでした。
『ヨハネ5章のベテスダの池の場面で、イエス様が癒しのために大勢の中から選んだのは、イエスの名前さえ知らない人でした。信仰が強いから癒されたのではありません。「癒されるためには信仰が必要だ」と説くのは、聖書的ではありません。『信仰による癒し』を行う、いわゆる『繁栄の福音』を説いて富を得ている悪名高い牧師達の常套句です。

イエス様が癒しを行なったり、私達の癒しの祈りが聞かれるのは、すべて神の栄光のため、私達が悔い改めて福音を信じるためです。癒しの有無を私達の信仰の強さとつなげることは、ただ神様の主権によるわざを矮小化し人を引き上げることになりますから、注意が必要ではないでしょうか。』とのご意見でした。


繁栄の神学の細部については詳しくは、私は知りませんが、神学以前に「神は癒す神、救いの神だ」と信じなければ何事も始まりませんね。神の言葉を、父親が語った約束を待ち続ける子供のような気持ちで私は待っています。


私に意見を述べてくださった方を感謝します。それをきっかけで、もう一度。再点検いたしました。そしてその方への返信は次の通りです。

            410989BE-C0CB-47D5-9887-54C92F8AA365


コメントありがとうございました。

「さて、ベテスダの池の人に信仰が強いか?弱いかは書いて有りませんね。イエス様が言われた通りに従いました。全くイエスを信用しない人が言った言葉じゃ動かないでしょうね?

福音書の他の箇所から併せて見れば全くイエス様を信用 信頼 しなければ信仰にも発展していません。役人のその場に居ない遠く離れた子供を癒やすには、役人自身の信仰告白からイエスは癒やしました。


ただ一般的に常に、私たちは特別な人を除いて100%の信仰を保つ事、継続するのは難しいのではないでしょうか?

そのような弱い私たちの信仰を助け補うのは、聖霊の力と助けだと信じております。あいにく繁栄の神学の隅々迄は、私は詳しくは分かりません。キリストを信じれば全ての恵み、繁栄すると言い切るのは自己実現の様だと思った事が有ります。ダビデに反逆した子供が亡くなり、ダビデは断食し祈りましたが、子供は生き返りませんでしたね。またダビデが神殿を建てたいと願いましたが叶わず、神様は何故?叶わない理由をダビデに教え、その願いを息子ソロモンに引き継がせました。


あなたが繁栄の神学と思うのは何故か?「信じれば叶う」全てが常套手段と言われましたが、御心に沿うことが、神の栄光を第一に考える事がいけないのか?私には分かり辛く残念です。申し訳有りません。

神学だけでは人は救われず癒されない気がします。私たちの願いが思い通りに全て叶うこと、繁栄するとも聖書は書いておりません。

繁栄の約束は無いですが、御心に叶うなら祝福を受けると書いて有ります。


御心に叶うのは神の栄光の現れを願う事と思います。

私がキリストを信じる事には反対しなかった母親(母に信じるように説得したがなかなか信じなかった。)がアルツハイマーになり記憶がなくなりました。このままでは救われないと祈り断食しました。癒されることより、救われることを優先して祈りました。


聖書の言葉通りの信じるように時間がかかりました。おおよそ4年後に、聖書に書いてあることを信じて、額に手を置いてオリーブオイル救いの宣言、(神の栄光による救いが有ると聖霊の力を求めながら信じると)宣言した後、3日目に完全に記憶が戻りました。


聖書には長老を招いてと聖書には書いて書いてありますが、当時の私の教会では、癒しは使徒行伝時代に終わった!と聞かされており、このままの神学、このまま信じれば母は救われ無いと救いと癒しの関係を追求調べました。聖書には「癒せ!」とキリストは命じたと書いてあるギャップと、また弟子たち命じた癒しの真実、神の言葉に現れを求めました。

         30B82790-17E4-4B8A-B83C-FD78744FE498


結果、カトリック 聖公会 他のプロテスタント超教派のセミナーに参加してもし食べました。その結果、私一人で神と向き合いました。詩篇1689「私は主を私の前に置いた。ー礼拝。」


しばらくして母の口でキリストを信じると告白したので、牧師に依頼して洗礼を受けました。87歳で洗礼から97歳まで元気で神を賛美しました。主の祈りを書き出して毎日。いつも唱えるように教えました。

しかし、高齢なので全く教えていなかった異言でも祈り、神を賛美するようになりました。また、母が7〜8歳の頃に救われる為に祈られた宣教師が居られます。

その方は亡くなりましたが、祈りは神に届いて80年後に、母が救われたのです。


この出来事を通して私は多くの人をに対して祈り始めました。やはり祈りをする私と祈りを求める方の間に、神に対する信頼と一致がなければ、目を見張る癒しは少ないと思います。23人が集まるところに聖霊が来られると言う聖書箇所マタイ18:1820を大切に信じています。

           2F781C04-29CB-46DE-B33E-19EBB8EE006D


ただ癒やしを求めて来る人の中で救いを第一に求めない事、神の栄光を第一にしない時、その人への祈りは困難に感じます。

それでも忍耐と期待して何年でも祈り待ちます。

母親が記憶喪失であっても(母親に信仰が無くても癒され。) 救われた救われたからですね。

最後まで読んでくださりありがとうございます。あなたに神イエス様からの祝福が有りますように。以上。の返信を差し上げました。


繁栄は自己実現の間違いを起こします。神の栄光を第一にしない救いと癒しはない気がします。

神の栄光を第一に地上に現れを願わない献金をしたとしても、自己実現を目的に献金を、あなたに100倍になって返って来ない気がします。 

救いも癒しも、和解や平和、平安も、神が語った言葉を信じなけばならないと思います。不信仰な私たちが信じる事が出来るように、聖霊の助けをイエス-キリストのお名前で求めませんか?

         IMG_0103


私が違和感持つ神学も有ります。人間の救済はあらかじめ定められているというカルヴァンの宗教信条の予定説がその一つ。しかし私は、信じる全ては予め決められてはおらず、その時。その人が如何に神を信じるかただと思います。

父なる神は、御子キリストを信じる全ての人を救います。
いつの間にか変わる 変化する神学も教義も{異端に多い}有ります。
全ての神学を否定はしません。信仰的な方針 アドバイスは有りますが,全てでは無いと思います。


神学では人は救われず、左右されません。神の言葉そのものが重要であります。

神の言葉 聖書の言葉は永遠変わらず、真実なのです。

神の言葉に精通したパリサイ派、サドカイ派らの神学は行いに囚われ、神の救いの本質からは逸れた気がしています。勿論、行いと信仰のバランスと実践は大切ですが、私たちは知識豊富な人が考えた神学に左右されない、神の言葉そのものを見続けて、素直に幼子のように父なる神の言葉を信じたい。つまり神の栄光を求めて行きませんか?そのものに注目し期待を込め、聖書に書かれた言葉を幼子のように慕い求めませんか?


様々な願いを、私たちは祈る事が出来ますが、御心の計画に沿っているか? 御心が第一なのか? 神の栄光につながっている願いなのか? は、吟味して聖霊によって導かれ悟る事も出来ます。私たち、人間側としては、神様ご自身を強く信じたうえで、山を動かす信仰があるかが問われる気がしませんか? 

繰り返しておりますが、様々な神学とか願いは自己実現のためでは無く、山を動かす程の強い神への信頼、信仰と、神の栄光の表れを第一にしているかが追われている気がします。

哲学思想 にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村 キリスト教 にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村 ライフスタイル にほんブログ村 ライフスタイルブログへ
にほんブログ村 心の風景 にほんブログ村 ライフスタイルブログ こころの風景へ
にほんブログ村 ブログ村 ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村