私は、多くの方々からのメール電話の相談を受けます。

時々。信仰の嘆き聞きます。
例えば「キリストを信じて数十年、何一つ良いことがなかった! どうしたら苦しみが消えるのか? 次々と辛いことが起きてくるし、どのように祈れば良いのか分からないのです。」と言う嘆きです。

その方は家族間の問題を抱えていました。その問題解決を必死に祈ってきました。でも解決されませんでした。一度、「家族の救いを祈りましょう!」と伝えましたけれど・・目の前にある問題に気を取られて救いを祈るために、心の余裕は余り感じられませんでした。
人間関係から中々落ち着いて
決めた一つの教会に通うことは無かった様に思えます。
随分前に、確か? 牧師のメッセージが難しいとか、祈りに力が無いからとも聞いた気がします。国内より海外宣教に力を入れすぎているとかの不満も聞いた気がします。
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対人的な欠点は目について指摘が出来ますが、自分自身に対してはどうしても甘くなりがちな私たちです。また何か問題が起きると、隣人に相談します。

多くの場合は、ヨブとヨブの3人の友人と僕のと討論に似てきます。その結果 本格的な解決は得られず、アドバイスとしては大概は「神を信じたら幸せになれるということはない。神を信じようが信じまいが、人には皆、幸せと苦しみとが平等に与えられている。それでも、神を信じ続けるところに、信仰者の醍醐味がある。」との結論を出す方が多い気がします。如何でしょうか?
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そんなことを言われてもね・・。問題は解決されて方が良いに決まっています。
振り返れば、15歳前に私がキリストを信じました。 先にラジオからの福音放送を聞いているときに、『病気の人の為に祈ります。心からアーメンと言って下さい。』と聞いて同意してアーメンと言った途端、 頭の先から足のつま先までスッ〜と流れる物を感じ 熱が下がりました。その事からキリストの存在 神を知って洗礼は受けました。
コックをしながら 時間を工面{日曜日が休めない}して教会に行きました。

しかし20歳に結婚し仕事に責任が出てきて 教会出席も、聖書を読む事も次第におろそかになりました。すると問題が色々と起きてきました。一番は対人関係は教会内と仕事先でもありました。
30歳になって、妻が癌になりました。死が近いと知って、慌てて教会に戻れるように努力しました。『教会に行きたい時間を下さい。』と泣いて祈ると妻の看病を認めて下さった勤務先のシェフが助けてくれました。看病の一環として日曜日に教会に行けるようになりました。それでも癌は治らずに、癒やしに対する確信も明確には持てませんでした。また当時の教会から癒やしに対する信仰は得られず 教えられず・・妻の霊をキリストに委ねることになりました。
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ただ、何で癌になって死んだのかは神は直ぐには理解させませんでした。年月が過ぎされる中でおぼろげに知解できるようにもなってきましたが、明確な答えは天国出神に伺う・出来るほかはないです。
私は、多少の理解不能な出来事が有ったとしたとしても、やはり
神は絶対的な存在だと信じているので、神ご自身からは離れまいと心に決めていました。
それはやはり初めての神との出会い{ラジオ番組から流れた祈りに同意してアーメンと言った途端、 頭の先から足のつま先までスッ〜と流れる物を感じ他途端に、熱が下がりました。その事からキリストの存在を硬く信じた} がありますからです。
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それでも理解不能なことが起きて また妻の死がショックで、ウツになったり仕事を変えたり・・これではダメだと 環境を変えようと海外での仕事を見つけて就職しました。
同じテーマのNO2に続く。