私たちが神の祈ろうとするとき。

「ねーねー!何を祈り願っうの?」と言う思いや、声が聞こえてくるような気がしませんか? その思いとも、声とも区別付かないけれど、こんな風に{下記}聞こえたり思ったりしませんか?

「そんなに一つに拘って熱心に祈っても中々答えてくれないよ。あなた祈ったのは、あの人だよねー?そうじゃい!? もういいでしょう、諦めたらいいんじゃないの? 待っても答えが返って中々来ないよ。絶望感を味わう前にさー、また違う祈りをしたらいいじゃない!?」

また、こんな声、思いがあり来ませんか。

Michelangelo_Buonarroti_027

「キリストの救いを信じているそうだねー、それは無駄だよね、まー信じたら永遠の命を貰うの? そう言えば、聞いた事があるね。あなたは死ぬはず無いとか?
あなたが神の子ようになるのですか?なんか嘘だよー。だったら何故に あなたはそんなに苦しんでいるのですか?」

  

publicdomainq-0011518pvv

「その実は食べても大丈夫です。だってあんなに熟してるよ、美味しいよ」そんな会話がなされたと思います。「見るに麗しく見えた」と聖書に書かれています。前記はエデンの園。神の言葉に巧みに操り神に疑念を持たせるサタンでしょう。

またこのように神は(聖書は)語ってるよ。『この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。』ローマ5:5


「祈りは聞かれる!」―これは聖書の一貫した主張です。聖書は、「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」詩篇50:15 
「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」ピリピ4:7と約束しています。この約束は真実です。

聖書は諦めずに、「絶えず祈りなさい。」(テサロニケ第一5:17)とも教えています。
神が一旦 定めた御心を変えることがあります。神はヒゼキア王には、「お前は死ぬ、その準備をせよ」と伝えましたね。
どの様に祈り 彼の心、信仰はどうだったのか?それらを見て 学んで 私たちの祈りや願いに活かすとすればどのようにすればよいのでしょうか。
その為に必要なのは、あなたが一番 ご存知ですね。

publicdomainq-0035621pdr

ヒゼキア王はその後。へりくだり 神の栄光を第一に求めた祈りを捧げて食い下がりました。 最終的には御心を変えました。あなた祈りは、、もう御心のままに、。と諦めずに。もう一度、食い下がり祈りませんか?
どうぞ、今一度、ルカ18章1〜5節を参照 確認して見て下さいね。{聖書が手元にない場合は、ネット検索でもわかると思います。)