春爛漫の季節になりました。


日本人にとっては桜や春は大変喜びの季節です。

こんな春だからこそ。何もない荒野、砂漠のことをふと思い出しました。私は若い頃。仕事でメソポタミア砂漠やアルジェリアの砂漠を見てきました。


私たち日本人にとって砂漠のイメージは砂の大地、何もない場所、不毛の地です。


 「荒野」「さばく」のイメージはあなたにとってはどのようなものでしょうか?まさに不毛の地だと思いがちです。しかし荒野とか砂漠と言われる場所もその地域によって様々な顔を見せます。日本人にとっての砂漠は、まさにサハラ砂漠のような砂の大地を思い浮かべやすいのです。


乾燥地帯の地の大地が広がる場合も多いのです。1年の内 雨季になりますと、その乾燥地帯が緑の牧場のように一斉に花を咲かせるところもあります。


聖書に書かれているように、荒野から聞こえてくる声、それが神の声だったとしたら?一体どのような状態でしょうか?


それは私たち個人 個人の信仰的 立ち位置によって違います。


全てにおいて満たされている人は緑の牧場に入るような状態かもしれません。しかしそんな時、神様は荒野に出ていくように呼び招きます。また逆に満たされていないと思う方には、今まで経験しなかったことを荒野で新しい体験するように、神様は招き入れるような気がします。


多くの日本人が持つ荒野のイメージは、試練のイメージですが、雨季の荒野はすばらしい体験をする場所です。また荒野は神と出会う場所です。恵みと奇跡に出会う場所です。


個人的な体験ですが、荒野と呼ばれる場所が一面の花畑に変わるのをイラクのメソポタミア砂漠やアルジェリアの砂漠で見ることができました。また実際に火の柱や雲の柱も見ることができました。

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旧約聖書。天からのマナ 雲の柱、火の柱はすべて奇跡は荒野で行われました。

神様はむやみに試練を私たちに与えません。一見何もないような荒野で知る大切なところだと思います。

私たちが日常している生活から1歩 出て新しい神を発見や体験をするために神は私たちを呼びます。

私たちの日常 信仰生活で体験しなかったこと、祈っても答えられないと思っている時、一見何もないようだと思える荒野に出て、違う観点や視点で私たち自身の信仰や生活を見直すために必要なことかもしれません。

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そんな時、あえて父なる神は荒野に出るように私たちに呼びかけます。恵まれた生活環境から、父なる神は荒野、神にしか頼るところがない場所に招き入れて、礼拝をするように私たちを導きます。


私たちが主の道を備えるために荒野に出ていく必要もあります。その道は、燔祭や犠牲を備えに行く道ではないでしょうか? 私たちが備える犠牲を神は見て喜ばれます。燔祭や犠牲の準備のないところには神様は来て下さらないと思います。私たちが備える燔祭や犠牲を神様は見届けてくださいます。

恵まれた環境では燔祭や犠牲を備えにくいです。今恵まれていないと思われる方は、将来恵まれるために神の約束を信じてあなたができる犠牲を備えている、準備する場所が荒野でははないでしょうか?



「呼ばわる者の声がする、『荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ』。」聖書 イザヤ40:3


あなたはどのような犠牲 燔祭を準備なさいますか?