批判 非難 評価は人によって様々。

意見や考え方のズレはどこかにあり 人は一様ではありません。
イエス・キリストも 讃美で迎え入れられたエルサレムですが、数日後には人々の評価が急変してしまいました。

昔、親せきに赤ちゃんが生まれたと御祝いに産科病院に行きました。新生児室のガラス越しに、父親が、私に言いました。『あの子、見てごらん、まるで猿みたい。みっともないな〜!あの親が可哀想だの〜!?』と評価しました。面会時間が来て、看護師が「お名前は?」と確認しました。「はい、名前は佐伯です」すると、あれだけ酷評していた新生児を目の前のガラス越しに連れてきた!!父親は赤面!!我が子との最初の出会いでした。
当時は産室に入る父親はいなかったのです。

 時々ですがネット、SNSを見ると一つの意見 聖書教理に対しても様々の意見があります。
ある方が、尊敬していた方の牧師の意見を書き込みました。するとそれを見た読者からとても汚い言葉で酷評をされました。その書き込みをした人は、「実は尊敬している方の意見をコピーペイスとしました。」と正直に伝えました。何と!!酷評した方もその牧師を尊敬していると日頃から公言していたのです。

様々牧師リ−ダ−からの話を一度聞いたら、牛が反芻(一度食べてから また口に戻して噛みしめる}ようにする。やはり鵜呑みにしないで、ご自身で聖書を調べて読む、確認する。聖書に書いてないことは余り話題にしないようが懸命かと思います。牧師、リ−ダ−間違いに気づいたら、進言できる、話し合える環境を先ず整えておくことが重要です。充分理解しあえる環境 感情を整えていくと異端も発生しにくいのではないだろうか?

人の噂も同じです。本人確認できない噂を鵜呑みにしないです。

ある人は信じて ある人は信じない!この事も同じかと思います。シッカリと確証と証拠が要ると思います。伝説以外に・・
クリック→聖母マリアの取り扱い方もカトリック内でも様々


聖書では唯一生きたまま天に神に取り上げられたのは、預言者エリヤとエノクだけだと書いて有ります。聖書は神が絶対に残したいことだけを書いたと信じます。 
またそれを言うと私が聖書原理主義者だと非難もされますが・・。

言葉は受け取る相手の心の有り様で意味や効果が変わりますね、同じ言葉でも好きな人や尊敬するる人からかけられた言葉と、嫌いだったり見下している相手からの言葉だと受け取り方が違います。実際の交流がないとわからない。顔を見ての会話だと表情や声からでもわかり合えることが多いのです。

「心に愛がなければ、どんな言葉も心に響かない」

ネットでもクリスチャンが汚い言葉で馬鹿呼ばわりをしているのを見かけます。それが喩え正論を述べていたとしても品格に対しての疑問が生じます。悲しくもなります。

批判 避難 評価するは、その境目は曖昧だけど、愛や思い遣りは触れた言葉使いなら 受け入れやすくなります。また、それをした人の品格も滲みます。ネットなどでよく見る死ね、馬鹿呼ばわりは反感 反抗しやすくなる。聖書も馬鹿呼ばわりを避けるよう進めているし、。

避難 批判の基準はキリスト(聖書)から、人の考え方だと私的基準になり千差万別です。

同じ批判するのにも、適切な言葉での批判と、相手を罵倒する批判では、効果も違います。
そこには、その人の心が現れます。

マタイ5:22 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。
yamayuri

変だなぁ 嫌だな おかしいな? 文句言わず 静かに祝福を相手方に祈ってから去って来ましたね。 神はアブラハムに言われたように、あなたが祝福する者を祝福すると言われましたから、、創世記
12:3 「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」

争い 教理違いは、本人は余り言わずに、神に相談して神に話しかけて来ました。
間違った噂を流されたりもしました。
けれど、神はお互いに悟らせます。 いつわりの噂を流した人は、病気 困難 様々な方法で神は本人に知らしめていました。
出23:1 偽りのうわさを言いふらしてはならない。悪者と組んで、悪意ある証人となってはならない。
有る事から不祥事 その牧師を辞任。ある人は私に関する偽りの噂を しかし脳の病気になりました。固い約束を違えた方 信頼して人から裏切られましたが、その方は後に死を迎えた人もいます。

なので人を呪うと怖いし それが自分にも帰ってくるので、祝福するようにします。
神は真実を知る。そして神はその人の心をシッカリと見ています。その言葉の心と言動から裁かれます。

「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。」 ローマ人への手紙2:1

酷いことをした人、自分と違う意見の人に対して物を言うのはいいけど、いつしかそれが激しい言葉で相手をののしったり、馬鹿にしたり、その人の人格さえ否定するような呼び方をするようになるのはいけない。そんなことをしたのでは、結局相手と同じようなことをしていることになるのです。

死と生とは舌に支配される、これを愛する者はその実を食べる。
箴言 18:21
言葉は神から与えられました。『初めに言葉あり。』その言葉で神を呪う、人を傷付ける、人を祝福する。言葉には品格が表れる、言葉に注意が要ると思いました。

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