色々の問題に直面すると・・

日々。私達は祈ります。それらの答えがが遅れた場合には、神の臨在を深く求めるようになりませんか?
それは差し迫った答えを得るよりも、問題解決するにも、 私たちは『神様!あなたに会いたい!』と
思うようになりませんか!?

実はSNSでも自由に発言が出来ますが、同じくキリストを信じていても、聖書の読み込みには千差万別感がある気がしました。
     翻訳による微妙な表現 日本語の翻訳にも何種類かあります。英語やラテン語 ヘブル語からの翻訳の微妙な日本語の違いもありますけれど・・聖書が形成された時代背景を疑う発言さえもあります。
微妙に聖書を疑う発言のこと けれどキリストを信じると云われる方にギャップを感じます。

それはキリストが十字架に掛かった後の弟子と同じような状態にも似ていませんか?
エマオの町に向かうで弟子に、イエス様が素知らぬ顔で、近づき 色々とき証しをして下さいましたね。
ルカ 24:13 ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから11キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。
 24:14 そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。
 24:15 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。
中略
 24:27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説きあかした。

私たちは聖書が分からなくなったときには、 色々の解説書 注解書も調べたりもしますが、一番良い方法は、聖書をまとめて下さった聖霊様に聞こうとする事がベストだと信じます。
色々の出来事から聖書が真実であると悟らせてくださり、また聖書箇所を通じて、・・聖霊は聖書を通じて聖書を説明して下さるからです。
聖書の一部が分からない 奇跡を信じられないとしても聖書全体を否定は出来ません。

イエス様から説明を受けたいと願う。臨在を求めることが第一だとが、大事では無いでしょうか?
エマオの道に行きたいと思うのです。

聖書が分からないときとはまた別な状態になることがあります。
キリストご自身が見えない、分からないときに陥りませんか?
そんなときにイエス様に会いたい!触れたいと思うことがあります。
信じたいけれど・・信じられ無い出来事が続くと特におもいます。

癒やしのとりなしをして祈っています。末期癌などは祈っても良くならないこともありますし、奇跡が起きることもあります。その分かれ目の理由が知りたいと・・ (癒やしに関しては、 永遠の祈りと救いがが最大の癒やしとは理解はしていますけれど・・。)

個人的な祈り、ビジョンが与えられて。。しかしながら 実現が出来ないときに・・キリストに会いたい お聞きしたいと思います。
聖書解説では 疑い深いことは良くないと云われることが多いですけれど。

その疑いに勝って、イエス様の愛が深いので、助けられます。
その例はトマスです。 確かに、イエスは私達を信じさせたいと愛しておられるのです。

ヨハネ 20:27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
 20:28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」
 20:29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」

キリストは、私達に近づいて下さいます。このような体験することは重要です。揺るぎない信仰を確立させます。何かの祈りの答えを得るよりも、神様の深い愛を経験するのですから。

時にはこのように求め続けていても、直ぐに体験できないですが、生涯の志として保ち続けるとある時に神の訪れがきます。その時を待ちましょう。
何年も待ち続けて、アブラハムはその訪れを待つていたことがうかがえます。

創世記18:2 彼が目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼は、見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をした。

かならず、神との出会いが、私達にもあります。 期待して待ち続けています。
もう一度・・ メソポタミア砂漠 イラクでの出来事を、私達も体験 神の言葉をアブラハムのように聞きたいと思います。

詩105:1  主に感謝して、御名を呼び求めよ。そのみわざを国々の民の中に知らせよ。
 105:2  主に歌え。主にほめ歌を歌え。そのすべての奇しいみわざに思いを潜めよ。
 105:3  主の聖なる名を誇りとせよ。主を慕い求める者の心を喜ばせよ。
 105:4  主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ