私たちは祈ります。

その祈りは誰を介して祈るのでしょうか? 
旧約時代の初期には神は人に直接。会いました 。アラムに始まりノアやアブラハム達です。

 目には見えなくなった、神を中々信じられずに、人の罪が増えて、神から本意からでは無くの距離が遠のきました。神は清く聖なる方ですから、罪が在る者との距離を取らざるを得なかったと思います。

 それでも神。私たちを哀れんで、神は私たちに犠牲を強いた方法を持ちいて、その罪を清めてから会話、祈りをする方法を教えられました。それは幕屋で、犠牲を捧げて牛 羊 鳩などの血を流し罪の身代わりとした後に許されて、祭司を介して祈る事が許されました。
 
薬屋での祈りの時代から、キリストが最後の大祭司となりました。

ヘブル 7:27 ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。

ヘブル 9:11 しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、

キリストは大祭司と成るための試練を、死の苦しみを味わい、牛 羊よりも高価な命、血を流し犠牲を私たちに与えました。
天が暗くなるほどの深い悲しみと苦しみでした。

マルコ15:34 そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

この流れた血によって 、幕屋以外で・・全世界の私たちが置かれている環境の中で祈る事が出来るように、父なる神は新しい契約を与えて下さいました。

それはキリストの愛の恵みなのです。
私たちの行いでは無いのです。エリヤのように、天候を動かず信仰が無くても祈ります。何か神に逆らって後悔の念があっても、祈ることが出来ます。頑固に意地を張って神と向き合うことが無くても、ふと私たちがつぶやく声に、神は耳を傾けて下さるのは、キリストの尊い犠牲に裏付けされた血が流されているからです。

父なる神は無関心 無感動で、私たちをほったらかしにはしていません。
原点に在る十字架を見上げるならば、その場に立ち返ることが出来ます。

既に捧げられた生け贄、キリストにより頼んで 信じて祈ることが出来るのです。
                        
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神の臨在と知るならば、あれこれと、個人的な願いさえすることが惜しまれる程に圧倒されるのです。またキリストは、私の名によって祈る祈りには答えようとも約束して下さいました。
これは、私たちの信仰の強さでも無く 行いでも無く キリストの流された血の犠牲によってです。

資格のないものが、キリストの一方な恵みに拠って可能となるのです。

マタイ 18:19 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
 18:20 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

ヨハ 14:13 またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。

キリストの名によってのみ叶えられる祈りがあります。 聖人、有名牧師の名前で祈って頼んでも正確な答えは無いです。<この人達の能力、権力にすがってもいけません!>
唯一 キリストのお名前です。

 第一には個人の願い事よりは、神ご自身の栄光を求める祈り。臨在を求める祈りが良いのです。神が第一も求めて折られるからです。

第二には、私たちの心を全部知っておられることに感謝する祈りと賛美なのです。
第三にも、隣人のための取りなし、許す祈りは神は喜ばれるのです。

自分自身に 正直に祈ることも喜ばれるのです。
私たちの心を知って下さる大祭司も大胆に近づいて祈れる幸いを感謝しましょう。 

新約聖書 ヘブル4:14 さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
 4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
 4:16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。