人はあらゆる環境の中で生きています。

しかし、その環境になじめない、ついて行けない人も必ずいます。
責任感が強くて、その場から離れられない人は、その環境になじめない拒否反応と、己の責任感の強さから来る、そのギャップに悩みます。
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 色々のケースがあります。
そのケースに対応したり、切り抜けたり、はたまた、新しい環境に変わるとかの手立てもあります。責任感の強い方は辞めることをしません。また、親から言われ絶対に従わないといけないとか。また職場の上司から言われたこなさなくてはいけない命令。それで、もうまく出来ないときにも 適応障害が生まれてきます。

ストレスがたまりすぎて爆発する。暴力的な行動。暴言を吐いたりの行動をとってしまう場合もあります。失意から自殺願望さえ生じてしまう方もいます。生きていても勝が無いと諦めてしまうからです。

ストレスがたまりすぎないように、自分自身をコントロールし、息抜きを知れば解消もされます。
しばらくの休職。また退職と転職で環境を変えることも出来ます。

また自らが場環境がたとえ困難であっても、やり遂げる使命感、喜びを感じる方、目的がある方は努力してその環境に慣れていきます。人の心は繊細で複雑ですから、各自に合う方法を選択しなくてはいけません。

私は 若い頃に学校を卒業して調理師をして働きたいと思いました。プロの職場は厳しくて、また次々来る注文に追われますね。必然と動作の機敏さを要求されます。のんびり屋さんで育ちましたから、動作が機敏=素早く反応できませんでした。 これも適応障害でしたね。 先輩方怒鳴られついて行くのが一杯 一杯でした。

将来の目的、店を持ちたい願いが強かったのです。その気持ちは 先輩たちに怒鳴られても めげませんでしたので、次第に環境に、ゆっくりでしたが、なじみ始めました。のんびり屋さんの性格は中々 変えられませんが、動作が速くなるように段取りを工夫することを覚えました。 忙しく次々と注文が来ても オロオロしないで冷静に判断して身体が次第に動き始めました。それで調理師を止めずに済みまして長きにわたって、この調理の仕事をしてきました。 背後には、私の信じるキリストの助けがありました。

さて、いまから45年前。親からの責任有る仕事を命令されて、うまくいかずに、暴力的 暴れた時に、精神科に入れられた人がいます。
当時は適応障害と言う病名も無かった頃だと思われます。 親の不理解 分からない状態でした。

それ以来、いくつかの病院を変わりましたが、病院に隔離されたままの方がいます。
今も、安定剤を飲まされている状態ですが、入院していない人に比べては、服用している安定剤は少ないと思いました。

6年前に、私の記事が100万人の福音というキリスト教雑誌に掲載されました。
偶然にその雑誌を見てた、その方が私に連絡をしてきました。それから月に一度。または2ヶ月に一度の割合で訪問して聖書の話と祈りをしています。

随分前に関係があった教会からは、現在。訪問が途絶えているようです。
けれど 「私の心にはキリストが住んでいる。」と言って、クリスチャンなれたことを本当に喜んでいます。
霊的には救われていますね。 一般社会にて生活するには如何なものかと考えてしまいます。
45年の病院暮らし、60歳を超えています。当初は正直に癒やしを祈ることに躊躇しました。
45年間の病院暮らしから一般社会に出ても、55歳では仕事すること 就職して自活がとても困難に思えることが想像でしたからです。

それでも一般社会にて暮らしたいと、最近は願いを持ち始めています。精神的に完治 癒やされても、その方の年齢から鑑みると現状では難しい点が多いです。 しかし・・・。

難しいからと言って避けてもいけないと、最近は特に思い始めています。

先のブログの青年の例が有るからです。神には不可能はないと再確認しています。
明確な意思 希望があれば乗り切れますし、キリストの言葉もその事を指していると思います。

最近。精神的な病の方のために祈っていると下記の言葉が心に残ります。
この言葉は一般的に知れ渡っている言葉ですが、 如何に各自に適応 応用するかにその意識と意味が違って来る気がします。

マタイ6:34 「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」

色々心配や病むことがありますが、あすに持ち越さないように、心を切り替えてストレスを貯め込まないようにしています。 

マタイ16:24 {それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。}}

一旦。自我 自分の思いを捨てること。 =心の重荷を取ってしまうこと。あれこれの悩みを捨てること。それからキリストの十字架を背負うことをにも応用。適応できます。
 
この箇所 本来の意味は、16:24 の言葉の前には、ペテロは自分の思いを優先、しかしキリストは戒めました。神の御心に叶うように、自分を変えることから、あらしい十字架を背負うことを指しています。

精神的な問題、鬱の原因。生活から来る各種の問題を、キリストに下駄を預けると、キリストが背負ってくださいます。あなたらしく背負う十字架は、キリストの生き方を背負って生きる事にも通じませんか?

私たちはキリストに在って、新しく生きていますから、神の助けは絶対にあるのです。
勝利の道を歩めます。

第二 コリント 2:14  「しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。」

現在 精神的に問題を抱えて、またウツにもなっている方々。今が健康だが、紙一重で思い煩うとウツになり、心病む事が多い私たちですが、キリストに希望を見いだして、自分の問題をキリストに委ねるときに、キリストはあなたを背負い、一緒に歩いて問題を解決する力を与えてくださいます。

私はキリストの言葉により、カウンセリングをしています。教会で傷ついた人からも相談があります。 カウセリングをしながら 一番癒やされたのは 私かもしれないです。 色々 霊的なご相談をさせて頂いています、無僕の教会、特別な伝道集会 癒やしの祈りに ご一報下さい。