人は病になり医師に診て貰う。

私たちは、病になります。
身近な病院、医師による診断と薬を処方されて、出された薬を飲むことから回復します。

私たちクリスチャンは、病に成ってから、医者よりは信じるキリストを第一とし病の回復を願い祈ります。

現代社会では、医師の知識や技量も、神の恵みの一つとして受け入れ取り入れる事が普通です。 逆に、信仰だけで治す!医者に見せ無いのは信仰の偏る過ぎ、行き過ぎとおもわれます。
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しかし、頼みにした医師が、病名を間違い治療法を間違う事も起こります。また、病院に行く事が、手遅れに成ったり、医師の診断間違い。また医師の手術技量不足、リスクを背負う事を嫌うとか、手の打ちようが無いと言われたら、、?

最後は、長血の女性の様に、キリストしか頼る所か無く成ります。

父なる神は、エジプトに下した罰、病を与え無い!
私たちも、神に従うならば
キリストに在って、信じる者には、恵みを与え癒しを与えると宣言してくださいました。出エジプト記 15:26より。

このエジプト記の神の宣言、明言はイエス・キリストによって山頂の垂訓、マタイの5章となりました。

その中の4節からは、『苦しめる(病に)人は、慰めを受ける。』ことが書かれたと受け取る事が出来ます。

聖書の中、登場人でヨブ程病に苦しんだ人はい無いですね! 何年間も苦しんだのだな〜〜て思う事が想像出来ます。
それでも、神はヨブとの語らいます。ヨブの間違いに気づかせて癒しに導きます。いかに信仰と病の回復が関係しているか?も暗黙的にヨブ記は教えています。

私の母も、アルツハイマー記憶喪失に成り、医師からは手の施し方が無いと言われました。 当時の私は、全権の信仰は牧師に任せて居ました。しかし、その牧師は癒しを求める事なく、救われてい無い母に、お母さんは死んだも同然に成ったと言われました。

それから、一般信徒の私自身が奮起するキッカケに成りました。
癒しと救いに関しての書物、カセットテープ、CD.ビデオ、凡ゆる教会セミナーに参加しました。それでも、母は癒され無い。

自分で言うのも何ですが、
諦めずに模索し続け三年半が過ぎて、ようやく決して、聖書書かれた様に、頭に手を置いて祈りました。その三日後。母が癒され正常に成りました。記憶回復しました。

神様の全権信頼度を深め、純真に神と向き合うことが大切だと思う事が多いです。 希望を神にかける橋の様に!課題が、病が重い程、かける橋には歳月も中には必要がある。この明石大橋は何十年も構想してからも建設時間が必要でした。信仰も、小さな鉄骨を、希望と言うボルトを締め日々組み立てる事に似ています。
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ただ、この神と向き合うことには、私たち自身が不安定に成りがち!それでも奮い立たせて、神を信じる事が癒しを求める時には需要です!

医師からは不治の病、手術が出来ないと言われた、その瞬間から、全権の神の癒しが始まるのです。私達も、自分の意思で、神に癒しを委ねる必要が在ります。

長い間、祈りましたが未だ癒され無い方が居ます。私自身の祈りのリストに書いて有る人がいます。耳の不都合、顔を患う方、目が見えなくなった方、原因不明の痛みと闘う方、足の麻痺の方 ケースは様々。私にはインターネットを通じて、病院を渡り歩きましたが未だに癒されない人からの依頼が有ります。

私自身も癒しの祈りのリストからの抹消する事を諦めずに祈り続けています。

他に祝福や問題解決する為に祈りのリストは有りますが、抹消も祝福を受けた日や、私が亡くなった日には抹消さるますが、何年間も祈り続けて行きます。

前記、女王エステルは、死ぬ覚悟無くして、受け入れ取りなしては祈れないと言った!



聖霊の導き無くしても祈れないです。取りなしの祈りには、聖霊からの導きやある責任が負わされると思います。

聖霊の導き、9年祈り続けて、ある日、回復、正常になった方もいます。

癒しの恵み、目的は、神の栄光の為に在ることも忘れてはいけないです。

キリストに誉れ、賛美 栄光が在ります様に!あなたの癒しが在ります様に!
私は涙と共に祈り続けます。

私は遠くな山に向かいて目をあげる。 私の助けは、あの山からやって来る。
病を背負い、その打たれた傷に寄って癒された。痛みよ!病よ、河の流れの如く去れ、流れ去れ!

死の淵に成っても、最後はでは、私はキリストからの奇蹟を信じる。

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