私達には重荷、タラントが与えられています。

つまり、この事で神様に栄光を帰したいとか、また神さまから受けた恵みと同じ物を隣人と分かち合いたいと感じたことが出発点だと思います。

私自身も、最初はとても不慣れで、福音、十字架の救いの証しもぶきっちょで満足に出来ませんでした。恥ずかしかった。
でもそれ以上に、救いが嬉しかったですので、ポツリ、ぽつりと話し始めました。

その決意をすると、神さまが用い始めました。初めはとても小さな始まりでした。

また有る時には、母がアルツハイマー病の記憶喪失から回復、神さまの業ですね。
また私が癌になって、大奥の人に祈られて回復しました。
それから、神さまの癒やしについて考え祈り始めると、隣人たちが癒やされました。 

                     

最初は祈っても「治るの?不安との戦い。」その不安と闘って振り切って祈って、自分自身がビックリでした。
どんなことでも、神への愛、隣人への愛に神さまが報いて下さいます。愛がないのなら虚しいですね。  

 私は海外生活中のお金 小銭を未だに持っています。日本にいては全く使えません。
 その国に行くと十分使える小銭です。 私たちが与えられている、神の国のタラントは生かしてこそ価値があり祝されます。使う動機は神の愛の感謝と、隣人にその神さまの愛を伝えるためです。
                     
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他人様から「あなたは何をしているの?駄目な人、祈っても無駄!」と思われ、言われてもても、神さまが私たちを愛して押し出されたことをコツコツなさると祝されます。

祝福の祈り・・有る時に、初めて出会ったヘンリーグリーパー師からの将来の予言的な祝福の祈りを受けました。嬉しくて涙が溢れ感動しました。神さまが私を忘れていないと告げられました。
その感動。ヘンリー先生がおこなっていたような感動ミニストリーを、また分かち合いと祈り始めて、断食もしました。
預言的な祝福の祈りも、『神さまこの方をどの様に祝福されたいのですか?どの様に癒やされたいのですか?』と祈り始めると確信が持ってて、告げた通りになるようになっていました。
時々ですが、とりなして祈っている方の病気の状態も、離れていても解るときがあります。 
これも最初は、不安との戦い、告げて見てビックリでした。祝福の言葉通りに、心と身体が癒やされ始めました。私が重視していることがあります。それは身体の癒やしの前に、救われる事、心の癒やしです。 そのためにも、身体の癒やしの前には、霊的なカウセリングー心の癒やしを執り行うようにしています。これも最初から出来たわけではありません。少しずつ訓練もされました。
神さま・・と祈りました。「ヘンリー先生から受けた恵みを分かち合えあるようにして下さい。」との小さな願いが動機でした。

                       

重荷・・「この事に関して、神さまのために何かをしたい。またこのために隣人の為に尽くしたい。」が重荷かなと思います。
タラント・・「この事に関心 興味がある。この事が上手くなって見たい。人を喜ばせて、神さまに、その人を振り向かせ関心を持って貰いたい。」・・タラントでは無いでしょうか?

いずれにしても、祈りながら前に出ると。振り返ると大きな恵みの河になっています。

大切だと思う事は、神のために自分の思いを献げることから、行動も祝されるようになっていたのです。
あなたから流れる恵みの水、タラントの水は最初は少ないかも知れませんが、振り返ると多くの人の渇きを満たします。
エゼキエル
47:1「彼は私を神殿の入口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、宮の右側の下から流れていた。」

上記の聖書の言葉通りに始まりは小さくても、徐々に水が増えたように、私たちのタラントも、神さまの愛と力で増やされます。

ご覧になって下さった方々への祝福を祈ります。