十戒の言葉とこの箇所。

「あなたの親を敬え」
ある日。親を敬うことばかり強調されて教えられていましたけれど、後半は、あなたの幸せ 祝福のためにと書いてあった事に気がつきました。

母の看病。記憶喪失(アルツハイマー病。)諦めて看病止めろと兄弟から言われました。看病と小さなレストランの自営で疲れていました。

そのようなある日、十戒を守る事の意味。総論結論が、「あなたの幸せのためである」と書いてることに気がつきました。
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当時の願いから、私のとっての幸せ・・当時は、母が告白して救われることでした。
 
幼い時。母の怒りにまかせ受けた虐待を、私が怒って許していなかった事。私と一緒に暮らしながらも、ことある度に、兄が良いと言う事にも腹を立てていました。その感情や思いを、改めて神様の前で許す宣言をしました。

記憶の無い母の霊に向かって楽しかったことを色々語り掛けて・・数年間。ある日当然。キリストの恵み、救いから(イザヤ53)母記憶を戻しました。

母は 癒やしを受けた記憶が回復した後に、洗礼と異言の恵みを受けました。母は88歳を過ぎて、聖書の教理は教えてはいませんでした。まして異言などは・・説明が難しいことは全部省いていました。けれど、洗礼を受けたと、母が讃美中に異言で歌い祈って来たので驚きました。
 
それからは母は随分と信仰が変わりました。異言の不要説、教理を否定は行きすぎた間違いだと思います。聖書の言葉通り、御言葉は地には落ちていません。

 記憶喪失からの回復さえありますから、希望と愛と信仰、そして、根気よく、現状を見てもめげずに祈ることから癒やしが始まります。赦しと救いが生まれます。もちろん癒やしだけでは無い願いも、時が着たら答えられる事実として信じる事が出来るようになりました。

出エジプト20:12 あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。,<長く生きても、両親が救われないなら意味が無いと思いました。幸せに生きるために。。>

十戒の目的に上げられ言葉
神を何処においても、あらゆる点で認めることの重要性。
 
出エジプト20:24 わたしのために土の祭壇を造り、その上で、羊と牛をあなたの全焼のいけにえとし、和解のいけにえとしてささげなければならない。わたしの名を覚えさせるすべての所で、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福しよう。

<祈りの場に献身(全ての人が、)する事。 それは祝福を受ける、救いと癒しを受ける為に。

「隣人を許す。」

この隣人を赦しには大きな決断。決心と告白が要ります。 相手が家族の場合.余計に許す事は困難かも知れない。でも、隣人も、家族も、教会のメンバーに対しても、先に許す決心をすると、後から、感情が伴ったり、あわれみの心や愛が不思議と聖霊様の助けから、私たちの心にわいてきます。

感情的に許していないのに、「口先だけで許す事なんか出来ない!」と思います。しかし、神はその決心を買われます。聖霊様がこの許す心、決心に働いてくださることを知りました。 
先ずは決心を!! 許す決心をなさってください。 赦しは心の癒やしにつながって、身体を癒やします。

当時所属していた教会の牧師は、癒やしに対して熱心には祈っていただけませんでした。不満がありました。病室の母を見て、「お母さんはもう死んだのも同然!」と言い切りましたからです。
それを許す決心をして、自分から祈る決心しました。癒やしのことを改めて模索を始めて、祝福に変わり癒やされました。

不満、不平を言わないことの祝福

前記で幼子は、その親のなすがままに受け入れる姿勢をお伝えしました。
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幼子以外で聖書を見るならば、ヨブという人物に目が行きます。彼は試練、病の人でした。
神のなさることを受け入れましたが、不満や不平を一言も漏らしませんでした。

ヨブ記 2:8-10 ヨブは土器のかけらを取って自分の身をかき、また灰の中にすわった。すると彼の妻が彼に言った。「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」
しかし、彼は彼女に言った。「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」ヨブはこのようになっても、罪を犯すようなことを口にしなかった。

腹に一物在る事が、人の言葉と成って口から出すのです。
不満不平は、人に言うだけでは無く、この言葉を知っている、全能の神に向かっても言う事と同様になります。

神様!何故ですか?と問いかけて、解決を祈る事までは許されますが、それ以上に、文句や不平を言い続けることは、神は喜ばないのでは無いでしょうか?神は試練を通して、私たちを成長させようとしているのでは無いでしょうか?
 
不満から人を裁かない。 

人を評価する 批評ことまでは許されます。決定的な裁きは、神様の領域だと思います。

マタイ7:2 あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。

ヨハネ 8:16 しかし、もしわたしがさばくなら、そのさばきは正しいのです。なぜなら、わたしひとりではなく、わたしとわたしを遣わした方とがさばくのだからです。

箴言 24:17-21 あなたの敵が倒れるとき、喜んではならない。彼がつまずくとき、あなたは心から楽しんではならない。
 24:18 主がそれを見て、御心を痛め、彼への怒りをやめられるといけないから。
 24:19 悪を行う者に対して腹を立てるな。悪者に対してねたみを起こすな。
 24:20 悪い者には良い終わりがなく、悪者のともしびは消えるから。
 24:21 わが子よ。主と王とを恐れよ。

テトス 2:8 非難すべきところのない、健全なことばを用いなさい。そうすれば、敵対する者も、私たちについて、何も悪いことが言えなくなって、恥じ入ることになるでしょう。

健全な心で、生活することが出来ますようにと祈ります。