神の救い 助け、癒やしを受ける。

その後には、神への感謝を捧げ物をして、最初に受けた恵みを神に献げ返し行為をしたのは、カインとアベルでした。 

創世記4:3−4 ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来たが、アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。

この時、始めて得た初子を献げたアベルの心を喜ばれたのは神様ご自身でした。作物が何故?神は受け取らなかったか?までは書いていませんが、憶測としては、その時のカインの気持ちを見ておられたと思います。

ヘブル11:4 信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。

次に、アブラハムが戦争に勝利した際に、アブラハムを祝したシャレム王であり、大祭司メルキゼデクに感謝の捧げ物を、十分の一を取って献げました。 創世記14:20

忽然と現れた大祭司メルキゼデクですが、この人物はいったい誰か?その人は、ノアのこ子セムだろうと思います。創世記10章にはセムは500年生きました。セムから生まれた子供それぞれの生きた年を引き算していくとアブラハムが生まれた時代にもセムは生きていたことになります。 大洪水からアブラハムまでは、約400年です。


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創世記 
28:20 ー22 それからヤコブは誓願を立てて言った。「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る着物を賜り、 無事に父の家に帰らせてくださり、こうして【主】が私の神となられるなら、石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜る物の十分の一を必ずささげます。」

願いを祈り、神から恵みを受けた時には、収入の十分の一を献げる自然な形が出来上がって習慣化されてきました。習慣化されても、心からの捧げ物で無ければ、カインの捧げ物に借りかねませんから、心の注意が要ります。 ユダヤ人には慣例化された後、律法として定められました。

病気の癒やしを祈ったり、誓願を立ててから回復した場合も 、神様に捧げ物をすることを勧められています。


申12:6 あなたがたは全焼のいけにえや、ほかのいけにえ、十分の一と、あなたがたの奉納物、誓願のささげ物、進んでささげるささげ物、あなたがたの牛や羊の初子を、そこに携えて行きなさい。

レビ記には、病気の回復の願いをする前やその後、回復したときには捧げ物をするように勧められています。小麦粉から牛まで・・ その人の経済状態にも 神は配慮しておられます。

レビ
14:11 きよめを宣言する祭司は、きよめられる者と、これらのものを【主】の前、会見の天幕の入口の所に置く。
 14:12 祭司はその雄の子羊一頭を取り、それを油一ログといっしょにささげて罪過のためのいけにえとし、それを奉献物として【主】に向かって揺り動かす。
 14:13 罪のためのいけにえと全焼のいけにえをほふった所、すなわち聖なる所で、その雄の子羊をほふる。罪のためのいけにえと同様に、罪過のためのいけにえも祭司のものとなるからである。これは最も聖なるものである

レビ
14:21 その人が貧しくて、それを手に入れることができないなら、自分を贖う奉献物とするために、雄の子羊一頭を罪過のためのいけにえとして取り、また穀物のささげ物として油を混ぜた小麦粉十分の一エパと油一ログを取り、
 14:22 また、手に入れることのできる山鳩二羽か家鳩のひな二羽を取らなければならない。その一羽は罪のためのいけにえ、他の一羽は全焼のいけにえとする。


イエス様も癒やされた後の注意として、神の癒やしを受けた事を人々に証しして、神がした事を言い広めるように、人々伝え讃美できる様にと言われました。

またレビ記に習い清めの証し、感謝の捧げ物をするように、イエス様は私たちに語っておられます。


マルコ1:44 そのとき彼にこう言われた。「気をつけて、だれにも何も言わないようにしなさい。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々へのあかしのために、モーセが命じた物をもって、あなたのきよめの供え物をしなさい。」 注意、この箇所では、言わないようにと言われましたが、主の時が来る前でした。 清めの捧げ物をすることは、主キリストは認めておられます。

 
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 癒やしを祈り、治ったら、感謝の捧げ物をすることは正しい事です。それぞれの経済状況にも神は答えられています
 レビ 5:11 もしその人が山鳩二羽あるいは家鳩のひな二羽さえも手に入れることができなければ、その犯した罪のためのささげ物として、十分の一エパの小麦粉を罪のためのいけにえとして持って来なさい。

 詩 50:14 感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き方に果たせ。
50:23 感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう。」

出エジプト 23:25 あなたがたの神、主に仕えなさい。主はあなたのパンと水を祝福してくださる。わたしはあなたの間から病気を除き去ろう。 

パンと水は、私達が生きていくための必需品。健康で在る事、病気が取り去られる癒やしを保証して下さいます。二つが並んだ言葉ですが、癒やしを受けた感謝、贖罪の供え物として、神に捧げる行為は、神が祝福なさいます。  キリストにあって、霊的なユダヤ人、キリストに身を寄せる異邦人である私たちも、自発的に、この神の命令を守ることは大きな意味を持っています。

自発的に私たち異邦人が、キリストの元にもを寄せて、神の加護と救いを受けるために律法を守る事は、神から祝されます。ユダヤ人に対して、身を寄せる異邦人を守るように旧約聖書にも書かれています。そのこと知っているユダヤ人が集まり協議もしています。下記の使途行伝

私たち異邦人が律法をを守るべきか、自発的な課題となりました。守れる者は守った方が祝福が大きい事は明らかです。その津法の中では病にかかり癒やされたら、祭司に病が癒やされたことを確認をおこない、神殿に、幕屋に、清めの捧げ物をおこなうことを含んでいます。未だ癒やされていない場合が、癒やされるように、贖罪の捧げ物を 誓願の捧げ物をユダヤ人達はしていました。


律法はおこなうことに重きを置きやすいですが、重要なのはその心です。つまり、神への感謝の行為です。
下記の御言葉は参照に・・


使徒
15:5 しかし、パリサイ派の者で信者になった人々が立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである」と言った。
 15:6 そこで使徒たちと長老たちは、この問題を検討するために集まった。
 15:7 激しい論争があって後、ペテロが立ち上がって言った。「兄弟たち。ご存じのとおり、神は初めのころ、あなたがたの間で事をお決めになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされたのです。
 15:8 そして、人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、
 15:9 私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。
 15:10 それなのに、なぜ、今あなたがたは、私たちの父祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのです。
 15:11 私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。」


使途14:27 そこに着くと、教会の人々を集め、神が彼らとともにいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったこととを報告した。

 マラキ 3:10 十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。──万軍の【主】は仰せられる──わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。

上記の御言葉だけが、神を試すことが出来る事が可能であると示している捧げ物に関しての御言葉です。


イスラエルの王の中で、ヒゼキアが個人的に好きな一人です。神から死の宣告を受けて死にかける。へりくだり癒やさた王でした。王と民は自発的な捧げ物を、神におこなっています。
 
第二歴代29:31 そのようなことのあとで、ヒゼキヤは言った。「今、あなたがたは主に身をささげました。近寄って来て、感謝のいけにえを主の宮に携えて来なさい。」そこで集団は感謝のいけにえを携えて来た。心から進んでささげる者がみな、全焼のいけにえを携えて来た。
 
前後しますが、民が間違った方法で捧げ物、過ぎ越し生け贄を食べてしまいました。その時、ヒゼキアはとりなしの祈りを捧げています。その結果。民は癒やされました。参照。第二歴代 30:18−21

重要なこと。 神への感謝 自発的な感謝です。 日本人に多い義理人情からの捧げ物ー献金 献品は控えましょう。牧師が言ったからと渋々も献金することも避ける行為です。 

マタイ 8:17 これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」

律法的な捧げ物よりは 感謝の生け贄、捧げ物です。

使徒13:39 モーセの律法によっては解放されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです。

私たちは、救いを、癒やしを、様々な助けを祈り願います。 答えられたら 感謝の捧げ物をすることを神は求めておられます。前記に書いたように、聖書がしめすように、そレぞれの経済状態の中から十分の一。それも経済的に不可能に近い場合は、神に告げたー赦しを願いー事情は神がご存じです。その中から最良な小麦粉を献げています。

聖霊が、私たちの心に語りかける物を、感謝を持って献げましょう。献げた後、病が更に癒やされ、救い。喜び 平安が益し加えられるのは神様です。
現代では牛、羊や鳩と言った犠牲の捧げ物代わりに、献金 献品 献労働、 人生を献げる。色々その人に相応しい感謝の捧げ物があります。 人から言われた?強いられたのでは無く自発的な感謝表現の捧げ物を受け取られます。

同じく献げても カインのような、神がお受け入れられない捧げ物は止めましょう。また誓願を立てて願った事。誓願ー特別な願いを神との契約をして、「神が叶えられたら、私はこの様にします。」と言ったことを必ず実行しましょう。 出来そうも無い事を誓願することは最初から避けましょう。


キリストの栄光を感謝、表す捧げ物が大切です。  このブログを読んで下さる、あなたに、大きな恵みがありますように祈ります。