今日も動画を作りをしていました。
 
 予定では、先日撮影した京都の動画を作る予定でしたが・・
以前に撮影したファイルを観ていたら、
急に・・今回作った 「灯台は遙か」 を再編集して作りたい衝動に駆られました。

この世には色々問題がありますね。 けれども正しい道しるべを観て、前に進めば問題を回避でますね。父なる神 キリストの言葉は、この世を照らす光です。
 
そんな願いを込めて この動画、灯台は遙かをご覧下さい。

          

聖書の言葉が、聖書を教えてくれます。聖霊の導きを求める事も必要です。

何よりも自分自身で生を良く読みバランス良くその意味を調べて、実行していかなくてはいけないです。 読み方には文脈で読み解くと分かりやすいです。章で区切ると、時には解り難いときがあります。
単独の文節では誤飲します。つまり間違った理解をしやすくなります。 自分勝手な解釈にも陥りやすくなります。いわゆるカルトですね。 この定義は曖昧ですけれど・・ある人が、ある人に向かって・・おまえはカルトだと言えば・・カルトとなる様な物です。 

どちらが正しいのかは、。神様の判断=聖書が基準です。聖書の言葉の場、その乱用もいけないです。又第一に福音を述べ伝えるために、聖書を知らないといけないです。

あらゆる争いも避けなくてはいけない。・・近年のネットなどでの神学的見解の争いは無益ですね。ノンクリスチャンへの影響を第一に考える必要と配慮いが福音宣教の観点から必要です。
神からの知恵を使いえばできます。実名のなじりあいをしなくても・・

個別に対抗し、その相談者に会う回答を・・教会を・・キリストの身体の徳を傷づけない、回復を気を遣います。

 チョコと横道に入りました。新約聖書に書かれていても、同じ意味の記述が旧約に書かれていない場合は、用心深くしなくてはいけないです。聖書に書かれてる しるし 癒やし 預言の以上も以下も無いのです。

吟味は不可欠。隣人が 牧師が語った言葉を 自宅に帰り聖書を調べる習慣を作りましょう。
あの12弟子他・・大勢の弟子達は、キリストについて話を聞いて歩き。。話を聞いては聖書(旧約聖書)で調べていたのです。

読みだけ・・調べるだけでは・・私たち人間側からの解釈では無く、神の目から見た聖書全体の真意がつかめきれません。 

神の本意。意思を灯台の光のように、この世に照らし輝かなくてはいけないですね。
この歌が出来た経緯をご存じたと思います。
経ヶ先ー丹後76598 (0)

クリスチャンとして、神の子として・・父なる神を愛しているから・・

まずは始めに、父なる神が、神子のキリストの血の代価で買い取ったほどに 私たちを愛されてからです。 その感謝を喜びを 崇めて礼拝に変えて・・
神に愛されている確信と感謝、喜びに溢れるからこそ・・その心を 伝えるために出来る事を選択して表現なさる方は多いと思います。人から愛された経験があれば・・愛を返したい 気持ちを表現したくなりますね。

自分自身の2〜5年分労働をお金に換えて、ナルドの香油を献げた女性も居ます。その日暮らしのお年寄りは、神への感謝を僅かな生活費の中から出来る事をして。神への感謝を捧げました。
神は老婆の・・その金額よりその捧げる心を見ておられます。規律的に献げても感謝と喜びの無いあらゆる犠牲と捧げ物は、神が拒否なさいます。
 
愛されているのに 受けるだが好きな人も居ます。やはり なにか感謝の気持ちを表したくなる人も居ます。 不公平さが出ないために旧約時代に立法化されました。原点は、戦いの勝利と生活が守られた感謝の捧げ物をアブラハムが大祭司に献げた時の基準でした。 原点はやはり心です。

神はサインとアベルの捧げ物をいかようにご覧になったのか? これがそもそもの捧げ物の原点です。

この聖歌 532番の意味 神の光を 灯台のように照り返す 光。

この世にある光に、私たちが代えられていきましょう。受けた恵みを 隣人に明け流すと。。又新しい恵み。油そそぎ。その油は新しい光源のもとになります。 

神の祝福が 皆様に 豊かにありますように。